私とは、何でしょう?
自分のことは自分が一番知っている、と思いがちですが、
実は最も分からないのが自分自身ではないでしょうか。
「汝自身を知れ」
とは、古代ギリシアの時代から言われてきた有名なフレーズです。
哲学を始めとするすべての学問は、自己の探求を究極の目的としますが、
はるか宇宙の様子が分かっても、30億の遺伝子が解読されても、
依然として私自身は謎です。
現に今ここにいる私が私じゃないか、と言うかもしれませんが、それは私の肉体。
頭のてっぺんから足のつま先まで全部が私だとするなら、
散髪屋さんで髪の毛を刈られたら、私の一部と生き別れしたことに?
こんな話があります。
「隣の嫁は、何という怠け者じゃ。
障子に、あんなでかい破れ穴が開いとるワイ」
と言っていたあるお婆さんに、後ろから孫が声をかけた。
「お婆ちゃん、どこから見てるの?」
なんと!
自分の家の障子の、もっとでかい穴から隣を覗いていたのでした!
「知るとのみ 思いながらに 何よりも
知られぬものはおのれなりけり」
ですね。
「私とは何だ」と探している張本人が私なんですが、
その私が私に分からない。
近すぎるからです。
そこで、鏡が必要になります。
仏教は、本当の私の姿を映す鏡。
「法鏡」と言われます。
その法鏡に映る古今東西変わらない人間の真実の姿を、
お釈迦さまは例え話で教えておられます。
※例え話はこちら
※動画でご覧になることもできます。
藤蔓にぶら下がった旅人の話でした。
藤蔓とは、私たちの寿命を例えたものでしたね。
短い寿命を長いと思って、
「まだ死なん、まだ死なん」
と構えているのは、藤蔓をワイヤーロープのように思っている錯覚といえるでしょう。
細い細い蔓に、
「これさえ握っていれば大丈夫」
としがみついている旅人とは、いったい誰のことでしょうか?
そして、その細い蔓を、さらに細くしているのが、白と黒のネズミです。
これは何を譬えたものか?
白は昼、黒は夜を表します。
白と黒のネズミが、交代で藤蔓をかじり続けているのは、
昼と夜が交互にやってきて、日一日と、寿命が短くなることを表わしています。
これには盆も正月もありません。
一刻の休みもなく、かじり続けるのです。
そして最後、噛み切られる時が来ます。
昼に亡くなった人は、最後のひと噛みが白のネズミだったということ。
夜に亡くなったのは、黒のネズミに藤蔓を噛み切られたということです。
必ず、何れかのネズミによって、私のしがみついている藤蔓は噛み切られます。
これまた、全人類、例外はありません。
さて、私のつかんでいる藤の蔓は、どれくらい細くなっているのでしょう?
『四十二章経』では、お釈迦さまが修行者たちに、命の長さを尋ねておられます。
一人は、「命の長さは、5、6日でございます」
次の一人は、
「5、6日もございません。まあ、食事をしている間くらいのものでしょう」
次は、
「いやいや、命の長さは、一息つく間しかありません。
吸った息が出なかったら、それでおしまいです」
お釈迦さまは、最後の答えを大いに称賛され、
「そうだ。
そなたの言うとおり、命の長さは、
吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかないのだ。
命の短さが、だんだんと身にしみて感じられるようになるほど、
人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」
とおっしゃったと記されています。
皆さんは、自分の命の長さを、どのように感じていますか?
■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■
今日は、親しい仲間たちと、望年会でした。
「“望”年会? 忘年会じゃないの?」
と思った方もあるでしょう。
いえいえ、望年会です。
今年を振り返って反省し、来年がより良い年となるように、
輝ける未来を望む「望年会」。
来年と言っても、来週は、もう来年なんですよね。(は、早い!)
きっと、すごいことが起きますよ!
すばらしい平成22年を迎えましょう☆
(*^-^)
お気軽にお問い合わせください☆
自分のことは自分が一番知っている、と思いがちですが、
実は最も分からないのが自分自身ではないでしょうか。
「汝自身を知れ」
とは、古代ギリシアの時代から言われてきた有名なフレーズです。
哲学を始めとするすべての学問は、自己の探求を究極の目的としますが、
はるか宇宙の様子が分かっても、30億の遺伝子が解読されても、
依然として私自身は謎です。
現に今ここにいる私が私じゃないか、と言うかもしれませんが、それは私の肉体。
頭のてっぺんから足のつま先まで全部が私だとするなら、
散髪屋さんで髪の毛を刈られたら、私の一部と生き別れしたことに?
こんな話があります。
「隣の嫁は、何という怠け者じゃ。
障子に、あんなでかい破れ穴が開いとるワイ」
と言っていたあるお婆さんに、後ろから孫が声をかけた。
「お婆ちゃん、どこから見てるの?」
なんと!
自分の家の障子の、もっとでかい穴から隣を覗いていたのでした!
「知るとのみ 思いながらに 何よりも
知られぬものはおのれなりけり」
ですね。
「私とは何だ」と探している張本人が私なんですが、
その私が私に分からない。
近すぎるからです。
そこで、鏡が必要になります。
仏教は、本当の私の姿を映す鏡。
「法鏡」と言われます。
その法鏡に映る古今東西変わらない人間の真実の姿を、
お釈迦さまは例え話で教えておられます。
※例え話はこちら
※動画でご覧になることもできます。
藤蔓にぶら下がった旅人の話でした。
藤蔓とは、私たちの寿命を例えたものでしたね。
短い寿命を長いと思って、
「まだ死なん、まだ死なん」
と構えているのは、藤蔓をワイヤーロープのように思っている錯覚といえるでしょう。
細い細い蔓に、
「これさえ握っていれば大丈夫」
としがみついている旅人とは、いったい誰のことでしょうか?
そして、その細い蔓を、さらに細くしているのが、白と黒のネズミです。
これは何を譬えたものか?
白は昼、黒は夜を表します。
白と黒のネズミが、交代で藤蔓をかじり続けているのは、
昼と夜が交互にやってきて、日一日と、寿命が短くなることを表わしています。
これには盆も正月もありません。
一刻の休みもなく、かじり続けるのです。
そして最後、噛み切られる時が来ます。
昼に亡くなった人は、最後のひと噛みが白のネズミだったということ。
夜に亡くなったのは、黒のネズミに藤蔓を噛み切られたということです。
必ず、何れかのネズミによって、私のしがみついている藤蔓は噛み切られます。
これまた、全人類、例外はありません。
さて、私のつかんでいる藤の蔓は、どれくらい細くなっているのでしょう?
『四十二章経』では、お釈迦さまが修行者たちに、命の長さを尋ねておられます。
一人は、「命の長さは、5、6日でございます」
次の一人は、
「5、6日もございません。まあ、食事をしている間くらいのものでしょう」
次は、
「いやいや、命の長さは、一息つく間しかありません。
吸った息が出なかったら、それでおしまいです」
お釈迦さまは、最後の答えを大いに称賛され、
「そうだ。
そなたの言うとおり、命の長さは、
吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかないのだ。
命の短さが、だんだんと身にしみて感じられるようになるほど、
人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」
とおっしゃったと記されています。
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