こんばんは。

昨晩、新大阪発の夜行バスに乗り、今朝5:20頃、富山駅前に到着しました。

富山駅に着くと、いつも富山駅ビル内の待合所で7時過ぎまで待って、2駅先の小杉駅に普通電車で向かいます。


地面にうっすら積もった雪は、寒さで凍り、上を歩くと、ザクザクと硬い感触でした。

今、パソコンを打ちながら、そう言えば足がかゆいなぁ、と思って見てみると、

「あ、しもやけ…」

ぷっくらふくれてました。

しばらく、かゆい生活が続きそうです。
(ーー;)


さて、今回は100回記念、と言いつつ、いつもの感じでメルマガです☆


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■「考えない」ことが求められる学生時代


おそらく、日本の学校で一番学ばされることは、「立ち位置の取り方」だろう。


教室という閉じた世界に一日中、何年もの間いなければならない子供たちは、その異常な空間にいかに存在すべきかという「ポジショニング」が最重要課題になってしまっている。


そこで行われている学習内容については、親も教師も「受験に合格するため」という合意がほぼ完璧になされているため、「生きることの意味」や「なぜ学ぶのか?」「自分とはいったい何者なのか?」などといった本質的な疑問を追求する本来の学問の姿からはほど遠い。


こうなると、そこで求められるのは「考えない」ことであり、「疑問をもたない」ことだ。


「どうして勉強しなければならないのか?」という子供の疑問に対して明確な答えを持たないまま、多くの親が「いまだけでいいから受験勉強して、余計なことは考えないように」と言ってしまう。


もちろん、その先には、有名大学卒業によるさまざまな「うま味」があるのだろう。


子会社、孫会社にしか入れず、親会社の年下の社員にアゴで使われることはないし、社会的信用があって住宅ローンも組みやすい。ニートやフリーターになって、親を心配させるようなことも少なくなる。


おそらく、そのあたりが親の本音なのだろう。「愛する子供のためを思って」というわけだ。


ところが、そういったうま味を味わえる有名大学・有名企業に入れる人間はごく一部であり、もし運よく入れたとしても、いつの日か唐突に、ずっと先送りにしてきた「疑問」が頭をもたげてくる。


結婚、出産、出世と世間的に幸福とされる生活の中で、その日はいきなりやってくるのだ。


(「非属の才能」山田玲司 ~光文社新書~)

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「何のために勉強するのか?」という疑問、メルマガ読者の皆さんも、考えたことがあると思います。

なかなか答えが出ないために、先送りにして、そのうち就職し、いつの間にやら忘れ去られてしまった疑問かも知れません。


「何のために勉強するのか?」は、つきつめていくと「何のために生きるのか?」という問題にぶち当たる。
人生の意味を問う、大切な疑問、仏教ではどのように教えられているのか、紹介していきたい。


○~思い出日記~○


新しいコーナーです。
そのとき、パッと思い浮かんだ思い出を紹介します。


幼稚園、小学生の頃、戦隊モノが好きだった。

日本に帰ってきて、すぐに見たのは、バトルフィーバー。

直後にデンジマン、翌年はサンバルカンだった。

(きっと皆さん、ご存じないでしょう……)


ヒーローはやはり子供の憧れですね。


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発行部数:34部