おはようございます。
— Masaki Nishimura 西村 昌樹 (@masakinishimura) November 8, 2025
昨日はうっとりしすぎるぐらい美しい紅葉の中を駆け抜け、終始ニヤニヤしてた。
ゼーゼーハーハー言ってるのに顔だけはドヤ顔という…客観的に見て、やはり変態なのだと納得。
今日も素敵な一日を。 pic.twitter.com/xNWAkl4Whb
10月半ば、青森に行く予定があり、十和田湖からはじまって、奥入瀬渓流、八甲田山と、青森を代表する自然景観に圧倒されて帰ってきたのだが、鉢伏山界隈も、その青森屈指の資源景観に負けず劣らないと確信した。
戦中戦後の物資不足で、森林資源が必要となり、各地では伐採がすすんだ。
その後、杉、ヒノキといった樹種に置き換わり、各地の山は単純林となったが、高度経済成長の中で、山の適切な資源管理ができなかったがゆえ、各地の山はずいぶんと貧相になってしまった。
氷ノ山の山頂に登って周りを見渡してみれば、そういった植林に置き換わったところは深緑が広がり、一方奥地すぎてなのだろう人の手が入らなかったところは、赤や黄色の鮮やかな色彩をはなっているので、秋はそのコントラストをはっきりと見ることができる。
昭和20年代、30年代は生きることに必死できっと生態系のことなどはおかまいなしにならざるを得なかったというのが正直なところなのだろう。
今、社会がずいぶんと豊かになり、心に余裕ができてきているということもあるのだろうが、そのころに、もう少し先の見通しをもっていれば、山頂から見える景色も随分と変わったものだったに違いない。
しかし、人々はこれからも生きていく。僕らが死んでも次の世代は確実にこの世に生まれ出てくる。
そのとき目にするものは、私たちが意思決定し、行動してできあがったものだ。
山と共に生きる私たちは、そういった50年、100年後の未来も少し意識していかねばならないと思う。
山頂にあがって、山を見渡すとき、私たちもまた自然の中の一部なのだと強く意識する。
マチにでれば、目にするものは人々がつくりあげていったものばかりだが、山に入れば、相当多くのものが私たち人間以外のもの、つまり自然が成長し、競争し、また協創しながらつくりあげられたものがほとんどである。
人間は、自然を支配し続けてきているが、やはり自然の圧倒的な力に僕らはひれ伏すしかないのである。
