友達が落ち込んでるとき、へこんでるとき、慰めの言葉ってかけることってありますよね。


でも、そう言っているうちに自分の中で冷たく相手を見ている自分がでてくる。


冷たいなんてもんじゃなく冷酷と表現すべき程の感情、自分。


そういう感情が出るのは別におかしなことじゃないと思う。


どういうきっかけ、プロセスで別の自分が出てくるのかは分からないけど。


ただ僕が多少驚いたのは、そういう別の自分がいても平然と「慰めの言葉をかける自分」を演じていたこと。


おそらくその友達は僕の中の冷酷な感情を感じ取ってはいないだろう。


言葉や態度だけでは人の感情は判断できない。


人前で自分の嫌悪感だとかのマイナスの感情をそのまま出せる人は世間の印象とは逆に素直な人なのかもしれない。


波風を立たせたくない。


そのために嘘っぱちを平然と言うことが大人への第一歩であるのは間違いない。


そんなことは小5のころから分かっていた。


だが、複数の人から「信頼される」ようになってから彼らの本音の一部分を聞くようになって、それまで当たり前の妥協だと思っていたことが急に心苦しく思えるようになった。


人間の多面性に意味がないとは思わないが、本音の一部を打ち明けてくれる人を前にすると、その裏打ちする理由に疑問がふつふつと沸いてくるのである。