タイトルが訳わからんと言う苦情は僕にではなく東○大学に出してください
いつの年度の現代文か忘れたが、ややこしい問題だった。
「青い鳥はいつから青かったことになったのか」
これって哲学じゃん。(ちなみにphilosophyの訳語は「愛知学」(名古屋のある県の民俗学ではない)というのが正しいんじゃない?と塾の先生が言ってたな。)
これって変な気がする。よく考えないとぐちゃぐちゃになってしまうのだ。エッシャーの騙し絵のような感じ。
この文章では、合理的に『青かったということになった』ことの説明がつく理由が見つかったら『青かった』ことになって『青い鳥はいつから青かったことになったのか』と言う最初の疑問は消滅してしまうらしい。
「この鳥は昔から青い鳥だったし、今も青い鳥である」と信じている当事者にしてみれば、過去において客観的事実からみると「青くなかった」としても、「青い鳥だった」と記憶していれば事実なのだ。「青い鳥」が「青くなかった」としたらそれにまつわる当事者の過去も虚構であることになる。
ん?ちょっと待て。合理的理由が見つかれば「青かったことになる」訳だから過去が変わってくるんじゃないのか?じゃあ、今の自分を形成する唯一の要素である自分の過去が虚構となるわけだし、記憶に立脚する自分が虚構ということになる。例えその問題をクリアしたところで、合理的理由に基づいて形成される過去ってフィクションだから虚構だろ?じゃあ、今の自分は虚構…
意味不明。
要するにこの文章の主題は客観的事実と過去の記憶を含む自己認識のズレを言いたかったらしい。(この「客観的事実」と言う言葉さえ疑わしいのだが便宜上使う)
最後の締めのところに、そもそも色って言うもの自体認識としてしか存在しないんだから青い鳥なんていやしない、とか書いてあるからもう失笑だね。
「青い鳥はいつから青かったことになったのか」の答えは
「色だとか鳥だとかいう分類自体が認識として解釈上存在するもので実存としては存在しないのであるから、ある時点から生き物がいたとしか言えない」になるんじゃないの?
書いててバカバカしくなる。
いや、僕の見方が間違ってんのかな…