どれだけ
最高のバッティングをしても

結果まではわからないということ??

最高のバッティングをわざわざ
労力かけてするのは
最高の結果として

ホームランを
そのときの感情や感覚を得たいからだ。

なのに
結果がえられないなら

やめよってなる。

わたしがしたいのは
バッティングではなく
ホームランのあのかんじだから。

それならもう
ホームランのときの再現を
みんなで協力して
させてもらったほうがいいんじゃね?

とすらおもう。

わたしは
バッティングしたいんじゃない。

わたしがバッティングをえらんだりゆうは
ホームランという現実を
体感したかったからだ。

あせみずたらして
三年かけて
ホームラン

なんてものはいらず

わたしは
今この瞬間

ホームランの現実がほしくて
バットをふった。



おかしいよね。


まずさきにやるのは
ホームランの現実を

体感することだ

体験することだ。


バットをふることじゃない


いまこのしゅんかん
ホームランの現実を
わたしは体感したい



これがねがいなら

やるのは
バットをふることじゃない

ホームランにむけた
なにかをすることじゃない。








いっやあたあああああ



を味わうこと。



わたし
妄想で満足することが
けっこうあって

べつにそれでいいかと
おもいはじめてきた。


なぜなら
じゃ、バットをかって三年やって、、

って


そんなのしたくないから


したいことは

ホームランの現実を
体感したい


それだけ。







ちいさな問題や悩みにぶちあたると
こころをそれにあわせて
せばめがちだけど

わたしはもっとおおきなそんざいなんだと
おもってみる。

とくにおかねは
さいあくのツール

だからこそ
それよりでかいわたしをかんじてみたとき

また

体感できるようになっていく。



こうかいっていうのは

体感せずにやってただけって
ことじゃねえか?とおもう。

体感するのもおそろしいねがいなら
→ほんとうに現実化してしまったらこまるもの

それもう
体感したくない
だから

体感したいを
体感させてやる

それはもう
現実化なんじゃないのかなと
いまはおもう。




ホームランをあじわうために
バットをかってさんねんつづけては

そんなことしてたら
こうかいするよ。


いまここ
ホームランしたわたしを


体感しよう