(「ペトルーシュカ」愛を語ってみた その1) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

友人が今度ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」のコンサートを聴きに行くとのことで、曲の聴きどころをブログ記事に書いてほしいと頼まれました。

大好きな曲で、挙げきれないほどの魅力があります。

好きな曲や好きな演奏について語るのって、何だか燃えますね(笑)。

素人語りで恐縮ですが、とても良い曲なので、もしよろしければお付き合い下さると嬉しいです。

 

 

 

 

 

音楽は、属和音(ドミナント)から主和音(トニカ)への解決、基本的にこの繰り返しでできています。

階名で書くと、

 

・長調… 属和音(ソシレファ)→主和音(ドミソ)

・短調… 属和音(ミ#ソシレ)→主和音(ラドミ)

 

となります。

属和音はぼやっとした性格を持っていて、主和音ははっきりした性格(長調なら楽しい、短調なら悲しい性格)を持っているので、主和音を聴くと腑に落ちるというか、落ち着くべきところに落ち着いた感じを受けるのです。

18世紀は、バッハもハイドンもモーツァルトも、皆この繰り返しで曲を書いていました。

 

 

 

 

 

19世紀になると、これが少しずつ変わっていきます。

革新者ベートーヴェンが、属和音を長ーくすることを始めました。

「アンダンテ・ファヴォリ」では、変奏主題の前半を(大きなくくりでは)ずっと属和音にして、なかなか主和音に落ち着かない、楽しいとも悲しいともつかないぼやっとした性格をメロディに持たせ、愛するヨゼフィーネへの憧れを表現したのです。

より後年のチェロ・ソナタ第4番やピアノ・ソナタ第28番では、さらに長いあいだ主和音に解決せず(前者では序奏の終盤まで、後者では呈示部の終盤まで)、満たされない気持ちといいますか、きわめてロマン的な雰囲気を醸し出しています。

なお、アンダンテ・ファヴォリの頃には未婚だったヨゼフィーネもこの頃には結婚していましたが、不遇な結婚生活を送っており、ベートーヴェンは何とか力になりたいと内なる恋心を募らせていたかもしれません(彼女のことと思しき「不滅の恋人」宛の手紙を彼はしたためながらも、出すことができませんでした)。

 

 

●ベートーヴェン:アンダンテ・ファヴォリ

 

(赤く囲んだ部分でやっと真の主和音に落ち着く)

 

→ 演奏動画はこちら

 

 

●ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第4番

 

(赤く囲んだ部分でやっと真の主和音に落ち着く)

 

 

 

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番

 

(赤く囲んだ部分でやっと真の主和音に落ち着く)

 

 

 

 

 

 

こういった主和音の回避による憧れの表現は、ロマン派の音楽家に受け継がれていきました。

シューマンの幻想曲ハ長調op.17や(クララとの結婚が阻まれた時期の曲)、ショパンの前奏曲変イ長調op.28-17などに顕著です。

そしてヴァーグナーに至っては、「トリスタンとイゾルデ」第一幕への前奏曲が一つの巨大な属和音のようになっていて、決して成就することのない禁断の愛が表現されますし、その後も最後の「愛の死」により二人が結ばれるまで、明らかな主和音はほとんど出てきません。

主和音の回避は、ヴァーグナーの手によって極限まで突き詰められました。

 

 

●シューマン:幻想曲 op.17

 

 

 

 

●ショパン:前奏曲 op.28-17

 

 

※29:24~

 

 

●ヴァーグナー:「トリスタンとイゾルデ」

 

 

 

 

 

 

 

ただ、どれだけ主和音を回避しても、心のどこかで主和音に解決(あるいは浄化、救済)されたがっている音楽、であることには変わりありません。

結局は、音楽はドミソ(あるいはラドミ)という単純な和音に縛られていたのです。

そんなのありきたりだ、別に主和音への解決を望まなくたって、属和音の響きをそのまま味わったっていいじゃないか、あるいは主和音にそれ以外の音を足して不協和音にして味わったっていいじゃないか(六の和音、七の和音、九の和音など)、そういうことを19世紀末に考えたのがドビュッシーでした。

彼は属和音に不協和音、それから長調や短調とは違った新鮮な響きをもつ五音音階や全音音階、こういったものを駆使して、主和音への解決を前提としないぼやっとした幻想的な音楽を書きました。

 

 

●ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」

 

(赤く囲んだ部分が五音音階、青く囲んだ部分が全音音階)

 

 

 

 

 

 

20世紀に入ると、五音音階だって全音音階だってやっぱり束縛だ、音階なんて全部取っ払って自由になろう、と考えたかどうか、とにかくシェーンベルクにより無調が生まれました。

こうして音楽は束縛から完全に解き放たれたわけですが、そのぶん楽しいも悲しいもない、ただただ灰色の情景がひたすら続いていくようなものとなりました。

灰色も美しいですが、もっと鮮やかな色が見たい! メリハリが欲しい! という気持ちになっても不思議ではないでしょう。

 

 

●シェーンベルク:「月に憑かれたピエロ」

 

 

 

 

 

 

 

そんなとき、鳴り物入りでパリの楽壇に登場した弱冠28歳の風雲児ストラヴィンスキーは、どのような音楽を書いたのでしょうか。

ドビュッシーをして「<パルジファル>でしか見たことのなかった管弦楽法の確かさ」(引用元はこちら)、「一種の音楽的魔術、機械の魂が魔法によって人間的となる神秘的な変化が見出されますが、その魔法を創造されたのは、今までのところあなた(注:ストラヴィンスキー)だけであるように思われます」(引用元はこちら)とさえ言わしめた世紀の傑作、「ペトルーシュカ」。

前置きだけですっかり長くなってしまったため、曲についてはまた日を改めて詳しく見ていきたいと思います。

 

 


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