今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
第10回浜松国際ピアノコンクール(通称「浜コン」)が終わった。
感動的な演奏がいくつもあったし、コンクール期間中ずっとワクワクし通しだった。
コンテスタントおよび運営の皆さまに感謝の気持ちでいっぱいである。
そんな中であえてこういうことを書くのは少し気がひけるけれど、審査について、素人ながら考えを書いてみたいと思う。
周囲の声やインターネットでの反響を見てみると、今大会の審査結果について、いろいろな意見が聞かれる。
審査結果が妥当だという声もあれば、妥当でないという声もある。
裏取引や陰謀があるのではないか、という声さえ出ている。
こういった様々な噂が出るのは、なにも浜コンに限ったことでなく、あらゆる音楽コンクールに共通している。
陰謀なんて、そんなまさか…と思うけれど、どうやらありうることらしい。
焦 元溥 著 「ピアニストが語る!」を読むと、名ピアニストのイーヴォ・ポゴレリチの以下のような発言が紹介されている。
“私はショパン国際ピアノ・コンクールに参加する前に1978年にイタリアのカサグランデ国際コンクールで第1位となり、1980年にカナダのモントリオール国際コンクールで第1位となっていました。モントリオール国際コンクールの後モスクワに戻りましたが、モスクワ音楽院のピアノ科主任のドレンスキーが私に会いに来て、私にショパン国際ピアノ・コンクールを捨てるよう「提案」しました。彼は私が彼らを妨害さえしなければよく、まだ誰を推すか人選していないので1982年のチャイコフスキー国際コンクール第1位と交換できると言いました。私は「ありがとう」と言って別れました。”
※ポゴレリチはこの「提案」を受けずショパンコンクールに出場し、一部の審査員が彼に低い点数をつけたために本選に残れず、審査員の一人だったアルゲリッチが抗議して審査を降りる、という有名なスキャンダルが起こった。
ドレンスキーというと、名の知れたピアニストであり、教師である。
この話が本当なら、高名な音楽家であってもこのような裏での干渉を行うことがある、ということになる。
「これはソ連の時代のことだから仕方ない、現代なら大丈夫なのでは」とも思ったが、そうではないらしい。
あるブログ記事(こちら)によると、審査員が他の審査員と結託して、お互いの生徒に票を入れあう、というケースがあるとのこと。
また、審査員がある教師の生徒に票を入れるのと引き換えに、リゾート地に招待される、ということさえあるようである。
これらが本当なら、若いコンテスタントの人たちにとってはたまったものではない。
「音楽を愛する人がそんなことをするなんて」とも思うけれど、ノーベル賞を受賞した本庶佑氏によると「ネイチャー誌、サイエンス誌の9割は嘘」とのことであり、サイエンスの分野ですらそんな状況であるならば、音楽だって例外とは言いきれない。
浜コンに限ってはこのようなことはないと信じたいけれど、実際のところは分からない。
では、いったいどうすればいいのか。
音楽コンクールの審査をより良いものにするために、私がぱっと思いつく方策をいくつか挙げてみたい。
1. 審査員間の平等化
1-a. 協議の廃止
協議をすると、たいていは声の大きい人の意見が通ることが多い。
審査員一人一人の意見を平等に取り入れるには、協議をするよりも機械的に票を集計したほうがよさそうである。
なお、浜コンでは、まず全員に投票した後、通るか通らないかのボーダーラインの人のみ再投票を行い、それでも決まらない場合は協議で決める、となっている(そういうケースは多くないのかもしれないが)。
1-b. 二段階評価
音楽コンクールは、以前は多段階評価(いわゆる得点制)が多かったけれど、現在は二段階評価(いわゆるYes/No制)が主流になっている(ように思われる)。
得点制だと、例えば10点満点の場合、「普通の演奏」には5点をつけるとして、「いまいちな演奏」に3点をつけるか、あるいは0点をつけるかで、審査員一人当たりの重みが変わってしまう(一票の格差)。
リヒテルは、ソ連で開催された第1回チャイコフスキーコンクールで、アメリカ人ピアニストのクライバーンに25点満点をつけ、それ以外の人には0点をつけた結果、クライバーンは優勝した。
これは、ソ連による干渉に負けずクライバーンを支持するためともいわれているし、あるいは採点方法をよく知らなかったためともいわれている。
その賛否は措くとしても、リヒテル一人の審査の重みが相当大きかったことになり、審査員間の平等化という観点からすると、こういう極端なのはまずいと思われる。
その点、Yes/No制は2択なので、審査員全員が同じだけの重みを持ち、平等である。
浜コンも、二段階評価を採用している。
しかし、二段階評価には欠点もあるように思う。
傑出した才能を持つ人を高く評価し、そこそこ良い人を少しだけ評価する、という細かな区別ができない。
例えば、傑出した才能を持つAさんと、そこそこ良いBさんがいたとする。
また、審査員は10人いて、うち1人はBさんを予選に通すため、Aさんを落としたいと思っているとする。
もし10点満点の得点制なら、Aさんには9人の審査員が10点を、1人の審査員が0点をつけて計90点、Bさんには9人の審査員が7点を、1人の審査員が10点をつけて計73点、つまりAさんが上になる。
しかし、もしYes/No制なら、Aさんには9人の審査員がYesを、1人の審査員がNoをつけ、Bさんには10人の審査員全員がYesをつける、つまりBさんが上になってしまう。
つまり、「Yesの割合の多い者同士の争いの場合、Noをつける審査員の影響力が相対的に大きくなる」という問題が生じるように思う。
浜コンでこれが一番問題になるのは、1次予選であろう。
88名中24名しか通らない、つまり4分の1しか通らない状況である。
しかも最初ということで、審査員もまだYesをたくさんつける。
つまり、上述のような「Yesの割合の多い者同士の争い」となるのである。
ショパンコンクールでたとえてみたい。
2015年ショパンコンクールは採点表が公表されているため、いろいろと分析することができる。
このときは、1次予選78名中43名が2次予選に進んだので、半数強ということになる。
調べてみると、60%以上の審査員からYesをもらえた人が、2次予選に進んでいる。
ショパンコンクールの審査員は17名なので、11名がYesなら次に進めるが、10名がYesなら落ちる、ということになる。
これが、もし浜コンの1次予選のように、4分の1しか通らないとしたらどうなるかを計算してみた。
すると、85%以上の審査員からYesをもらえなければ、2次に進めない、ということが分かった。
審査員17名中、15名がYesなら次に進めるが、14名がYesなら落ちる、ということである。
これは、相当厳しいと思う。
これをそのまま浜コンに当てはめるとすると、浜コンの審査員は11名なので、85%以上ということで、10名がYesなら次に進めるが、9名がYesなら落ちる、ということになる。
たった2名の審査員からNoの判定を受けるだけで1次落選というのは、本当に厳しい。
上記の例のAさんのような傑出した才能を持つ人が1次で落とされやすい土壌になってしまっていると思うのだが、どうだろうか(実際に不正が行われたと言いたいわけではなく、そうなりやすい環境になってしまってはいないか、ということ)。
1-c. 多項目細分評価
二段階評価のこうした欠点を克服するには、どうしたらいいか。
おそらく答えはないが、例えばフィギュアスケートでは、採点事項を多項目に細分化する、という工夫をしているらしい。
ウィキペディアによると、フィギュアスケートには「技術点」「構成点(いわゆる芸術点)」「減点」という3つの項目があって、得点=「技術点」+「構成点」-「減点」というように計算されるらしい。
そして、技術点は「基礎点」と「GOE(出来栄えの評価)」に分かれ、構成点は「スケート技術」「要素のつなぎ」「動作/身のこなし」「振り付け/構成」「曲の解釈」に分かれているらしい。
やたら複雑なため、詳しいことは分からない。
つまりは、Yes/No制よりも細やかに評価できるという多段階評価ならではの利点がありつつ、要素を詳細に細分化することでむやみに0点など極端な点数をつけにくくし(どの要素もすべて0点というのはあまりに目立つので)、審査員間の影響力の格差を防ぐことができている、という気がする。
しかし、音楽においてはどのような要素を設定するか、という問題もある。
あるアンケート(こちら)では、「音・響きの美しさ」「拍子とリズム・拍節感」「音楽の構成力」「メロディと伴奏のバランス」「それぞれのスタイルを適切に表現する力」「自発的に音楽を楽しんでいるかどうか」「ペダリング」「音の正確さ・明確さ」「デュナーミク」「テンポの選び方」「暗譜の精度」「ステージマナーなど」といった項目が挙げられている。
こういった項目ごとに演奏を評価すると、どの項目にも欠点のない、きわめて平均的な演奏ばかりが評価されることになりかねない、という懸念がある。
より適切な採点法を模索すべきと思うが、少なくともYes/No制の問題点については広く議論されたほうがいいような気がする。
2. コンテスタント間の平等化
2-a. コンテスタントの教師の審査除外
コンテスタントと師弟関係にある教師が審査員にいる場合、その教師がそのコンテスタントの審査から外れることで、贔屓を防ぐことができる。
これは、浜コンもしっかり行っている。
しかし、2人の審査員が結託してお互いの生徒に票を入れあうとか、特定のコンテスタントに低い評価をつけるといったことは防げない。
2-b. ブラインド審査
誰が演奏しているか分からないようにカーテンで隠して審査する、という方法もありうる。
誰が弾いているか分からなければ、贔屓したり特定の人に低い評価をつけたりはできないし、また先入観を防ぐこともできる。
ただし、カーテン越しなので音は少し聴きづらいかもしれない。
また、「私の生徒は何と何の曲を弾くから、そのコンテスタントに票をよろしく」という取り引きが事前に行われた場合、ブラインドにできなくなってしまう。
結局のところは、現実的でないかもしれない。
ただ、確かウィーン・フィルの団員のオーディションはブラインドで行っている、という記事をどこかで読んだような気がする。
それが本当なら、ウィーン・フィルはそれだけ真剣に後継者を探しているということであり、コンクールにもその姿勢は見習ってほしいところ。
3. 第三者によるチェック
3-a. 第三者監視機関の設定
不正がないかどうか監視してくれる第三者機関があれば、不正は減るかもしれない。
国際音楽コンクール世界連盟という団体があり、ここに統括してもらえれば一番良さそう。
ただ、狭い世界だから、結局は癒着などして有名無実になってしまうのかもしれない。
3-b. 審査結果の公開
結局は、何か機関を作るよりも、私たち一般人がチェックするほうが効率的かもしれない。
そうなると、審査結果の公開が重要となる。
今回、浜コンはなんと審査の集計結果を公表する予定とのこと。
今までは、公表されていなかったような気がする(違っていたらごめんなさい)。
もし今回が初めての試みなのであれば、これは大きな一歩である。
小川典子審査委員長の英断、ということだろうか。
ただし、この試みには、まだ問題もある。
一つ目は、審査員の名を伏せる、という点である。
ショパンコンクールは、審査結果だけでなく、審査員の名も公開した。
そうしなければ、何か怪しい点が見つかったとしても、誰の仕業かわからないので、当人にとっては痛くもかゆくもないだろう。
浜コンでも、ぜひ審査員名を公開してくれないものだろうか。
二つ目は、1次予選では通過者のみ結果を公表する、という点である。
上で書いたように、1次予選での落とされ方こそ注目すべき点だと思われるため、1次予選こそ全員の結果を公表してほしい。
これらはプライバシーの問題もあるため、一筋縄ではいかないのかもしれない。
しかし、不正の予防にはそれなりの効果を持つように思うのだが、どうだろうか。
3-c. 師弟関係、金銭授受関係の開示
一人一人のコンテスタントが、どの教師に師事しているか。
また、一人一人の審査員が、どのコンテスタントを指導しているか。
これを明記することは重要だと思われる。
そうすれば、ある審査員の生徒ばかりが良い結果となっていないか、といったことがチェックしやすい。
リーズコンクールでは、各コンテスタントの教師を明示していた。
さらには、どの事務所と契約しているとか、どのピアノメーカーから支援を受けているとかいった金銭授受関係も開示すると良さそう。
そうすれば、特定のピアノメーカーと関係を持つ審査員が、そのメーカーのピアノを弾くコンテスタントを贔屓していないか、といったことがチェックしやすい。
ここまでやっているコンクールはないかもしれないが、金銭関係の開示は、サイエンスの分野では一般的に行われているようである。
以上、思いつくままに書いてみたが、いずれも素人考えでしかない。
専門家の方に意見を聞いてみたいところである。
音楽コンクールは、審査の適正化という点ではオリンピックに大きく後れを取っているように思う。
史上初の国際音楽コンクールといわれるアントン・ルビンシテイン・コンクールの第1回大会が開催されたのは1890年。
実は、近代オリンピックよりも歴史が古いのである(第1回近代オリンピックは1896年とのこと)。
音楽コンクールには、むしろオリンピックに先んじるくらいの勢いで最先端の改革をしてほしいものである。
そして、浜コン。
浜コンは、これまでにもCD販売やネット配信など、様々な点においていち早く改良してきてくれた経緯がある。
そして(おそらく)今回、審査結果の一部公開にも踏み切ってくれそう(現時点ではまだのようだが)。
今後も、上に挙げたような二段階評価の見直し、審査結果の完全公開、師弟関係・金銭授受関係の開示など、さらなる前進をぜひ期待したいものである。
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