石井楓子 滋賀公演 シューベルト さすらい人幻想曲 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第22番 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

びわ湖ホール ロビーコンサート

石井楓子 ピアノ・コンサート

 

【日時】

2018年8月29日(水) 開演 13:00

 

【会場】

びわ湖ホール メインロビー

 

【演奏】

ピアノ:石井楓子

 

【プログラム】

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第22番 ヘ長調 Op.54

シューベルト:さすらい人幻想曲 ハ長調 D760 Op.15

 

※アンコール

リゲティ:ピアノのための練習曲集 より 第10曲 「魔法使いの弟子」

 

 

 

 

 

石井楓子のピアノ・リサイタルを聴きに行った。

びわ湖ホールの無料ロビーコンサートである。

使用されたピアノは、公式サイトにもあるとおり(こちら)、1927年製のエラールのピアノである(記事末尾の写真参照)。

約100年前に作られた楽器だが、石井楓子ならではの柔らかで美しい音づくりのためか、また残響の多いロビーでのコンサートということもあってか、ピリオド楽器特有の乾いたような打撃的な音色ではなく、いつものモダン・ピアノのような潤いをもった響きが聴かれた。

 

 

前半のプログラムは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第22番。

先月の彼女のリサイタルでも聴いた曲である(そのときの記事はこちら)。

2回目であっても、感銘が薄れることは全くなかった。

この曲で私の好きな録音は

 

アンスネス(Pf) 2012年9月22日ニューヨークライヴ(動画

 

あたりである。

清水のようにさらさらと流れる、無色透明の美しい演奏。

これに対し、石井楓子の演奏は、同じくらい端正であるにもかかわらず、聴いた印象は異なる。

無色透明では決してなく、もっと抒情的でしっとりとした、何らかのシックな色合いを持っているように聴こえる。

アンスネスとは違った、しかし同等に美しい演奏である。

ピアニストのアルフレート・ブレンデルは、往年の巨匠ヴィルヘルム・ケンプのピアノ演奏を評して、そよ風に吹かれてさらさらと鳴る古代ギリシアの楽器、エオリアンハープに喩えたという。

石井楓子の演奏も、風のように自然で、それでいてどこか物悲しい趣を湛えていて、まるでエオリアンハープのようだと私は思う。

 

 

後半のプログラムは、シューベルトのさすらい人幻想曲。

この曲で私の好きな録音は

 

Ho Yel Lee (Pf) 2017年モントリオールコンクールライヴ(動画

 

あたりである。

端正で、力強く輝かしい演奏。

これに対し、石井楓子の演奏は、そこまでの輝かしさはないけれど、その分より深い情感の込められたものだった。

連続するトレモロやアルペッジョのような機械的なパッセージであっても、彼女が弾くと心の表現となる。

Ho Yel Leeの演奏と、甲乙つけがたい。

 

 

ドイツおよびスイスに留学経験のある彼女だが、演奏間の彼女のトークによると、同じドイツ語圏でも、北部(ドイツ)と南部(オーストリア、スイス)とでは雰囲気が全く違っていて、言葉が通じないことさえあるという。

確かに、ドイツとオーストリアは似て非なるものなのだろう。

大指揮者ブルーノ・ワルターは、自身の回想録「主題と変奏」で、

 

“ドイツ人たちが「重大だが、希望がないわけではない」と評したその同じ状況を、オーストリア人たちは「希望はないが、重大ではない」と形容したという1918年の戦争ウィットは、私にはいつもほんとうに良いヒントになると思われる。というのもここには、恐ろしいものを恐ろしいと認めたうえでなおもほほえむことのできる、オーストリア人の心のなかが見てとれるのである。”

 

と書いている。

オーストリア人であるモーツァルトやシューベルトの音楽には、こういったウィットに富んだ、重大なことを笑い飛ばすような、からっと乾いたところがあるように思う。

 

 

しかし、石井楓子の弾くシューベルトは、違っている。

どのフレーズも大変にエモーショナルで、乾いた表現が聴かれる瞬間は少しもない。

真面目で内省的な、優しくも暗い憂愁と憧憬。

その意味で、彼女のシューベルトは「ドイツ的」であり、喩えるならば、ドイツ人作曲家シューマンから見た憧れのシューベルト像、といった趣がある。

こういう演奏で聴くと、冗長になりかねない第2楽章が真に迫る悲歌として聴き手の心を強く打つし、短調の主題が長調になって戻ってくる箇所など、さながら魂の浄化のようである。

彼女はいったいどうやって、ドイツ・ロマンの精神をかくも深く体得しえたのだろうか。

 

 

アンコールで弾かれたリゲティのエチュードも、美しい演奏だった。

ピリオド楽器は、たいていの場合、昔の曲は昔の楽器で演奏したい、という欲求のもとに使用されることが多い。

今回のリゲティのような、1927年製の「昔の」ピアノで1990年頃に作られた「現代の」曲を演奏する、という不思議なずれは、(ヴァイオリン等では普通だけれど)ピアノにおいては珍しい、興味深い試みだと思う。

 

 

 

 


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