読売日本交響楽団
第204回土曜マチネーシリーズ
【日時】
2018年2月10日(土) 開演 14:00
【会場】
東京芸術劇場
【演奏】
指揮:ユーリ・テミルカーノフ
ピアノ:ニコライ・ルガンスキー *
管弦楽:読売日本交響楽団
(コンサートマスター:日下紗矢子)
【プログラム】
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23 *
ラフマニノフ:交響曲 第2番 ホ短調 作品27
※アンコール(ソリスト) *
チャイコフスキー/ラフマニノフ:子守歌
読響のマチネーを聴きに行った。
なぜなら、あのルガンスキーがチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾くからである。
この曲で私の好きな録音は
●リヒテル(Pf) カラヤン指揮ウィーン響 1962年9月24~26日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●タラソフ(Pf) チフジェリ指揮シドニー響 1996年シドニーコンクールライヴ(動画)
●ルガンスキー(Pf) ナガノ指揮ロシア・ナショナル管 2003年2月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
つまり、自分の中でのこの曲の決定的な演奏が、実演で聴けるかもしれないということ。
これは聴き逃すわけにいかない。
ロシアとその周辺の国々(以下、単に「ロシア」と記す)には、素晴らしいピアニストがかつてたくさんいたし、現在もどんどん出てきていて、ロシアン・ピアニズムは世界のピアノ楽派の中でも、一大スクールを成している。
往年の巨匠たち、例えばネイガウス、イグムノフ、ゴリデンヴェイゼル、ソフロニツキーなどからは、ロシアン・ピアニズムの特徴の一つと思われる美しい音、優れた歌謡性が感じられる。
彼らは華々しい演奏活動にはあまり縁がなく、むしろ名教師として彼らの伝統を後進に伝えていった。
一方で、ロシアン・スクールは、例えばヴラディーミル・ホロヴィッツのように、超絶技巧と力強い轟音とで聴衆を圧倒する、より華麗なピアニズムを持った人たちをも輩出した。
現代でいうと、イェフィム・ブロンフマンやデニス・マツーエフなどは、その要素を受け継いだピアニストと言っていいかもしれない。
そして、この二つの要素を兼ね備えたピアニスト―圧倒的な力強い音を持ちながら、それが決して「轟音」にならず、弱音から強音に至るまで全ての音に美しい透明感と豊かな歌謡性を湛えた、ロシアの大地を思わせるような深々とした打鍵をもつ人―そんな稀有な才能が、ごくわずかながら存在すると私は考えている。
その最初の人が誰であったかは、分からない。
アントン・ルビンシテインであったか、あるいはアレクサンドル・ジロティであったか?
録音で分かる範囲では、私の知る限り、20世紀前半を代表するロシアの巨匠、セルゲイ・ラフマニノフがその最初の人である。
それから、20世紀後半には、かのスヴャトスラフ・リヒテルがいた。
彼らは、その稀有な「音」を、特にラフマニノフの曲の演奏において最大限に発揮したように思われるので、勝手ながら私は彼らのことを「真のラフマニノフ弾き」と便宜上呼んでいる。
そんな「真のラフマニノフ弾き」は、21世紀の現代においても存在するだろうか?
もし存在するとするならば、それはニコライ・ルガンスキーを措いて他にいない、と私は考えている。
ただ、上で挙げた、彼の1歳年上にあたるセルゲイ・タラソフからは、ルガンスキーに比肩しうるかもしれない要素が感じられる。
また、もっと若い世代では、Vladislav Kosminovやドミトリー・マイボロダ(メイボローダとも表記する)も、同じく「真のラフマニノフ弾き」の有力な候補と思われる。
しかし、タラソフや若い2人には状態の良い商業録音が少ないため、私にはまだ少し判断しづらいところがある。
そういった有力な候補たちを除くと、ルガンスキーは若い才能に事欠かない現代ロシアのピアノ界の中でも、群を抜いた存在だと思う。
ラフマニノフの曲の演奏には、どうしてもこの特別な「深々とした音」がほしい。
ホロヴィッツの弾くラフマニノフの演奏ももちろんエキサイティングだし、「ホロヴィッツの演奏」を聴きたいときには全く問題ないのだけれど、「ラフマニノフの音楽」を聴きたいときには、私にはどうしてもしっくりこないのである。
チャイコフスキーでは、ラフマニノフの曲ほどにはこのような「音」が必須だとは思わない。
ただ、それでもいざ好きな演奏を挙げてみると、上記のように、「真のラフマニノフ弾き」たちの演奏ばかりが残ってしまうのだった。
そんなルガンスキーの弾く、チャイコフスキーのコンチェルト。
私としては、彼の生演奏を聴くこと自体、初めてである。
実演を聴いてみると、期待に違わぬ出来だった。
分厚い和音もオクターヴも、いわゆる「轟音」には決してならず、深々と大変美しく充実して響いてくる。
これぞ、聴きたかった音!
第1楽章第2主題、あるいは第2楽章のような、聴かせどころのメロディでは、CDでも比類ない美しさだけれど、実演では本当に最高級の、光り輝くような音だった。
フレーズの息も長く、美しい旋律が細切れにならずに大きな呼吸で歌われていく。
これぞ、ロシアのリリシズムである。
タッチコントロールも完璧で、ところどころに出てくるアルペッジョ(分散和音)も急速なパッセージも、きわめて美しく滑らかに、なおかつヴィルトゥオーゾ風でなく誠実な細やかさをもって奏される。
15年前に録音された上記のCDと比べても、衰えや綻びが全くみられない。
そして、第1楽章や終楽章の、迫力に満ちたコーダ(結尾部)。
ここでのダブルオクターヴや、右手と左手と交互に鳴らす輝かしい和音は、CDほど明瞭には聴こえなかったけれど(私は3階席だった)、それでもオーケストラに埋もれてしまうことのない圧倒的なフォルテの「質感」はCDの比ではなかったし、それでいていわゆる「爆演」にならない確固たるコントロールには、絶大な感銘を受けた。
長い長いこのコンチェルトが、こんなにも短く感じられ、もう一度弾いてほしいとさえ思ったことは、これまでなかった。
なお、オーケストラのほうは、上記CDでのナガノ&ロシア・ナショナル管のようなすっきりとした透明度の高い演奏とは違い、今回のテミルカーノフ&読響はもっと分厚く華麗なロシア風の音づくりである。
これはこれで、ナガノとは別の意味でルガンスキーの音楽性とマッチしていて、なかなか良かった。
後半のラフマニノフの交響曲第2番も同じ調子で奏され、華やかに膨らまされていく旋律は、まさにロシア。
ただ、テミルカーノフの指揮からは、例えば私の好きな
●プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管 1993年11月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
のような、こだわりぬいた美しさやクライマックスでの爆発は聴かれず、やや単調だったため、途中で少し飽きてしまったのではあったけれど。
その点、先日聴いた広上&京響の同曲演奏のほうが、第1楽章再現部での迫力といい、第2楽章の中間部から再現部への移行部分のアッチェレランド(加速)の巧みさといい、ツボを心得たものだった(そのときの記事はこちら)。
とはいえ、ロシアの空気を感じさせてくれるという点では、今回の演奏のほうに軍配が上がるだろう。
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