今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
去る10月24日(火)、名ヴァイオリニストのアリーナ・イブラギモヴァが、都響(指揮:小泉和裕)をバックにバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番を演奏した。
聴きに行きたかったが、平日に東京ということであきらめた。
評判は、かなり良いようだった。
先日のブラームスの協奏曲(そのときの記事はこちら)よりも良かった、という声もあった。
きっとそうだろうと思う。
ブラームス以上に、バルトークはイブラギモヴァに合っていそう。
実際、昨年聴いたバルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタも、とても良かった。
今回は聴けなくて、かえすがえすも残念である。
代わりに録音を聴きたいが、彼女のこの曲の録音はない。
というわけで、私の好きな録音である五嶋みどり盤を聴いた。
●バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1、2番 五嶋みどり (Vn)、メータ指揮ベルリン・フィル 1989年2月(第1番)、1990年2月(第2番)セッション盤(Apple Music)
ここでは第2番だけでなく、第1番も聴ける。
ともに、大変な名演である。
味わい深さも、キレ味の鋭さも、超一級。
おそらく、今回大変評判の良かったイブラギモヴァの演奏に、ひけを取らないものと想像される。
加えて、メータ指揮ベルリン・フィルがまた、素晴らしい。
カラヤン時代末期からアバド時代にかけてのこの時期は、ベルリン・フィルの一つの全盛期、と言ってもいいのではないか。
それにしても、五嶋みどり。
これを録音したのは、まだほんの17、18歳の頃である。
ピアニストのルガンスキーやチョ・ソンジンなどもそうだと思うが、20歳にもならない間に、ここまで完成してしまっては、後が本当に大変だろう。
「円熟」、と言うのは簡単だが、いったいどのように変化すれば「円熟」といえるのだろうか。
実際、五嶋みどりは、音楽のことや、あるいは音楽以外のことなど、色々相まってのことだろうが、このあたりからとりわけ苦しい時期が始まったようである。
10歳でメータの前で演奏して驚愕させ(それこそ、上記のバルトーク第2番と、あとパガニーニ第1番を弾いたという)、11歳でメータ指揮のもとサプライズ・デビュー、そして14歳でバーンスタイン指揮のもと「タングルウッドの奇跡」を成し遂げた彼女。
その少し前に初録音を果たし(バッハの協奏曲)、16歳にはソニーと専属契約を結んでパガニーニのカプリース全曲を録音。
これは、ピアノにおけるポリーニ演奏のショパンのエチュード全曲にも比すべき記念碑的な録音であり、これを超えるものは未だ現れていないと私は思う(あのユリア・フィッシャー盤でさえ、これを凌ぐことはできなかった)。
そのような世紀の天才少女が、10歳代終わり頃から20歳代にかけて、非常に苦しい思いをしたのは、ある意味では避けがたい成り行きだったのかもしれない。
何が苦しいのか、何が悲しいのかさえ分からない、何が何だか全く分からない、底なしの苦しみだったという。
22歳のときには、長期入院さえしている。
この頃の演奏からは、息が詰まるほどの極度の集中力が聴かれる。
その後、30歳を越えた頃からか、演奏に少し余裕のようなものが出てきた印象がある。
人は、これを「円熟」と呼ぶのかもしれない。
だとすると、「円熟」とはなんという苦しみの産物であることだろう。
そして、皆が皆、「円熟」に成功するわけではない。
誰が、とはここでは書かないけれど、うまく「円熟」できなかった人も、たくさんいるように思う。
なんとも儚く過酷な世界だと思うのは、私だけだろうか。
ルガンスキーは、どうだったか?
チョ・ソンジンは、どうなるか?
イブラギモヴァにしても、あれほど完璧な演奏を聴かされてしまうと、そこへ至るまでの苦しみと、そこまで至った後のさらなる苦しみとが、どうしても私の脳裏をよぎるのである。
杞憂なら、いいのだが。
ところで、五嶋みどりの弾く、バッハの無伴奏ソナタとパルティータのブルーレイ(DVDも)が、このたび発売される。
●J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲 BWV.1001-1006 2016年8月セッション盤(ブルーレイ/DVD)
現在の彼女の「円熟」を、バッハゆかりの地ケーテンの美しい街並みや城を背景に、聴くことができるとのこと。
これはもう、私は、買わないわけにはいかない。
彼女は、もう苦しみから解放されただろうか?
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