関西フィルハーモニー管弦楽団
第7回 城陽定期演奏会
東儀秀樹とのスペシャル・コラボ&城陽に轟く《運命》
【日時】
2017年8月20日(日) 開演 14:00 (開場 13:20)
【会場】
文化パルク城陽 プラムホール (京都府)
【演奏】
指揮:藤岡幸夫
雅楽師:東儀秀樹*
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団
(コンサートマスター:岩谷祐之)
【プログラム】
・第1部
JUPITER(ホルスト:「惑星」より)*
光り降る音(東儀秀樹オリジナル)*
地球よ、優しくそこに浮かんでいてくれ(東儀秀樹オリジナル)*
蒼き海の道(東儀秀樹オリジナル)*
誰も寝てはならぬ(プッチーニ:「トゥーランドット」より)*
・第2部
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 作品67 「運命」
※アンコール(ソリスト)
As Time Goes By(映画「カサブランカ」より)*
※アンコール(オーケストラ)
アイルランド民謡:ロンドンデリーの歌
関西フィルの城陽定期を聴きに行った。
前半は、東儀秀樹とのコラボレーション。
彼の演奏を聴くのは初めてだが、笙(しょう)と篳篥(ひちりき)の2種類の笛を駆使していた。
なお彼は、笛の紹介をする際、「しょう」と「だい」という2種類の笛を使って…とボケて、しっかりスベっていた。
「JUPITER」は笙と篳篥を両方使って、「光り降る音」では笙のみを、「地球よ、優しくそこに浮かんでいてくれ」「蒼き海の道」「誰も寝てはならぬ」では篳篥のみを使っての演奏だった。
ところで、笙も篳篥も、西洋音階(ドレミファソラシド)に合うように作られているとのこと。
1400年前にシルクロードをわたって日本に伝わってきた音楽は、実は今でいう西洋音階であったということを、今回初めて知った。
いわゆる日本の音階は、実は江戸時代以降に作られた、鎖国の産物だったようなのだ(尺八は笙や篳篥よりも新しくて、この日本の音階に合うように作られていると)。
西洋音階はどこで作られたのか知らないが(ギリシアのピタゴラス音律?ローマの教会旋法?)、それが奈良時代頃には遠い日本にまで伝わってきていたというのは、大変興味深いことである。
そして、笙にいたっては、シルクロードを逆向きに伝わって、オルガンのもとになったとのこと。
確かに、和音を奏することのできる管楽器というのは、大変珍しい。
実際に聴いてみても、笙の和音は何とも言えず神秘的な響きがして、面白かった。
もしかしたら、現代において最も隆盛を誇っている楽器であるピアノも、もとをただせば笙に端を発しているのかもしれない。
和音を出せる管楽器としての笙 → 鍵盤をつけてオルガン → 鍵盤を残したまま管楽器を撥弦楽器に変えてチェンバロ → 弦を「はじく」から「叩く」に変えてフォルテピアノ → 近代的に改良してピアノ、という感じの流れだろうか。
篳篥のほうも、アイリッシュを思わせるような哀愁漂う音色で、なかなか良かった。
グリッサンドのようなポルタメントのような奏法も、この楽器の魅力の一つだろう。
ただ、例えば「誰も寝てはならぬ」において、篳篥のまえに前奏のようにして奏されたクラリネットのメロディを聴くと、「あぁ!やっぱりクラリネットはいいな」とも思ってしまったのではあったけれども。
クラリネット奏者は梅本貴子?よく見えなかったが、とても良い演奏だったように思う。
ともあれ、笙や篳篥を生で聴くことのできた、貴重な機会だった。
後半は、ベートーヴェンの「運命」。
私は、先日の関西フィルの定期で藤岡幸夫の振るヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番を聴き、彼のすごさを再認識したため(そのときの記事はこちら)、今回も期待して聴きに行ったのだった。
今回聴いてみると、例えば前半プログラムの「地球よ、優しくそこに浮かんでいてくれ」や「誰も寝てはならぬ」などでは、さすが藤岡幸夫と思わせる洗練された美しいオーケストラ演奏が聴かれた。
しかし、後半プログラムの「運命」では、あまり大きな感銘を受けることができなかった。
私は、特にこの「運命」と、あと第九では、フルトヴェングラーとカラヤンの演奏がすごすぎて、他の演奏では満足できない体質になってしまっているのだった(「運命」のほうは、カルロス・クライバーもなかなか良いが)。
フルトヴェングラーとカラヤンは、「重厚さ」と「推進力」の表現のバランスが絶妙なのである。
今回の藤岡幸夫/関西フィルの演奏は、「推進力」はなかなかのものだった(終楽章のコーダなど、かなりのテンポでぐいぐい推し進められていた)。
しかし、「重厚さ」が足りない。
腹にぐっとこたえるような重厚さがなければ、この曲の激しい「苦悩」は表現できないし、その後に勝ち得るはずの「歓喜」も大きいものとはならない。
もちろん、この曲はあくまで交響曲であって、標題音楽ではなく、「苦悩」も「歓喜」も必要ない、という意見もあるだろう。
しかし、「運命」と第九は、ベートーヴェンの交響曲の中でもストーリー性が強いというか、そういった要素を持ち込んだ曲であるというのは、確かなのではないだろうか。
これらの曲に見られる「苦悩から歓喜へ」といったストーリー性や、第1主題と第2主題の性格的対比といった特徴は、のちのロマン派の作曲家たちにも大きな影響を与え、例えばヴァーグナーの楽劇や、性格的な主題群(いわゆる「ライトモティーフ」)の使用に繋がっていくことになる。
この曲のそういったドラマ性と、それと相矛盾するような絶対音楽としての格調の高さとを、絶妙な配分で実現したのが、フルトヴェングラーとカラヤンではないだろうか(彼らのやり方は、それぞれ違ったものではあったけれども)。
まぁ、藤岡幸夫の洗練された美しさには、「運命」以外により適性の高い曲もたくさんあるだろう。
またいろいろと聴きに行きたいものである。
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