(ピアニストの自己評価) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

先日聴きに行った、ロームミュージックファンデーションのスカラシップコンサートで感銘を受けたピアニスト、石井楓子(そのときの記事はこちら)。

彼女の弾くブラームスの「4つの小品」op.119は、とても素晴らしかった。

しかし、彼女のブログを見てみると、彼女自身にとってはあまり納得のいく演奏ではなかったようである。

あれほどの演奏でも納得いかないのか! と私は驚いた。

 

 

そこで思い出したのが、往年の名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルの話。

彼もまた自己評価の厳しい人で、自身のブラームスのピアノ協奏曲第2番の録音(Apple Music)について、

 

『エーリヒ・ラインスドルフとのブラームスの第二協奏曲の録音がありました。これは、私のレコードとしては最も出来の悪いもののひとつですが、それにもかかわらず今でもほめそやされています。しかし私には許容できません。』(「リヒテル」165㌻)

 

また、自身のシューマンの幻想曲の録音(NMLApple Music)について、

 

『シューマンの録音のときには夜通し幻想曲と格闘しては(もうずい分前に姿を消した)インペリアル・ホテルのサウナに入るということをしたものだ。』

『最初から終わりまでずっと一貫するという感じがなく、成功しているとは言い難い』(『リヒテル』260㌻)

 

と言ったとのことである(以上、こちらのサイトより引用)。

 

このうち、ピアノ協奏曲のほうについては、共演者の演奏に満足がいかなかったという可能性も考えられる。

この録音は、もともとはフリッツ・ライナーが指揮する予定だったのだが、リヒテルとライナーは馬が合わず喧嘩して、代わりにラインスドルフが指揮したという話を聞いたことがある。

かと思うと、この録音が行われたのと同じ1960年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を録音する際には(Apple Music)、シャルル・ミュンシュの見事な指揮ぶりに感激して、リヒテルはひざまずいてミュンシュの手にキスしたとのことである。

また、リヒテルとカラヤンがうまくいかなかったという話も有名である。

おそらくリヒテルには、共演者に対しても「こう演奏すべき」という確固たる信念があったのだろう。

ミュンシュやフルトヴェングラーの音楽を愛し(リヒテルはフルトヴェングラーのレコードを好んで聴いていたという)、ライナーやカラヤンとはうまくいかなかったというと、リヒテルの音楽的志向はおおよそ想像がつく。

つまり、どっしりとした重厚な演奏が好きなのだろう(かなりざっくりとした言い方だが)。

そう考えると、ラインスドルフの演奏も好きになれなかったのかもしれない。

なお、このブラームスの協奏曲第2番には、リヒテルとミュンシュが共演したライヴ盤も残されているが、こちらは重厚な演奏となっている(NMLApple Music)。

こちらの演奏には、リヒテルも満足していたかもしれない。

 

しかし、シューマンの幻想曲のほうはというと、こちらはソロ曲なので、共演者への不満というものはありえない。

「一貫性のない演奏」とのことだが、そのようには私には聴こえない。

彼は自分に厳しすぎたのではないか、という気もするが、一方では、例えば1965年のカーネギーホールでのライヴ録音(CD)について、

 

『私がカーネギー・ホールでリストのソナタを演奏したとき、私たちのアメリカでのマネージャーであるヒューロックはニューヨークの新聞各紙の音楽批評家をひとりも招待しなかった。それで演奏会は大変な成功だったのに完全に知られないまま終わってしまった。リストの作品を集めたこの録音は、いくつかの録音技術上の不備が理由で長いこと発売されないでいるが、本当にうまくいった演奏のひとつである。私自身楽しく聴き返す。これはそうそうないこどた。』(「音楽をめぐる手帳」1981年1月8日 『リヒテル』380㌻)

 

あるいは、1971年のシューマン(NMLApple Music)、ベートーヴェン(NMLApple Music)、ブラームス、ラフマニノフ(Apple Music)の一連のスタジオ録音について、

 

『ずいぶんと働いた。その結果が三枚の新譜となった....。
 今回の録音は完全にプロの仕事という感じた。おかげで音楽家や一緒に仕事をした録音技術者たちからもよい仕事だと認めてもらえた。スタジオ録音にもかかわらず、本物の雰囲気と生き生きした躍動感が出ている。成功だったと言ってよいだろう...。』(『リヒテル』251㌻)

 

と満足げに語っている(引用元は同上)。

私としては、リヒテルが満足している録音と満足していない録音との出来の違いが、聴いていてもよく分からないのである。

 

 

先ほどの石井楓子もそうだが、もしかしたら一流の演奏家は、聴衆が思いもつかないような次元で「理想の演奏」というものを考えているのかもしれない。

あるいは、ちょっとしたミスタッチとか、そういう「画竜点睛」程度の話なのだろうか。

どうも、そういうことではないような気がする。

演奏家の思い描く「理想の演奏」とは、いったいどのようなものなのだろうか。

おそらく、言葉では表現できないような類のものなのだろうが、私にはとても興味深いというか、気になって仕方がないのだった。

 

ところで、彼女は来月、イタリアのリヴォルノでブラームスのクラリネット三重奏曲 op.114 を演奏するらしい(詳細はこちら)。

ブログによると、今回のop.119の反省を、次のop.114の演奏に活かしたいとのこと。

いったいどのような演奏になるのか、大変興味深い(イタリアまでは遠くて行けないのが残念)。

 

 


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