フェスタサマーミューザKAWASAKI 2017
東京都交響楽団
【日時】
2017年7月26日(水) 開演 19:00 (開場 15:00)
※公開リハーサル 15:30~
【会場】
ミューザ川崎シンフォニーホール
【演奏】
指揮:ヤクブ・フルシャ
管弦楽:東京都交響楽団
(コンサートマスター:矢部達哉)
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【プログラム】
スメタナ:連作交響詩《わが祖国》
実に素晴らしかった!
先日行ったばかりの、フルシャ/都響のコンサート。
今回はフェスタサマーミューザKAWASAKIの一環としてのコンサートで、曲目はスメタナ「わが祖国」。
以前の記事にも書いたが(そのときの記事はこちら)、決して少なくないこの曲の録音の中でも私が最も好きなのが、フルシャ/プラハ・フィルハーモニア盤なのである(NML/Apple Music)。
これはもう、聴きに行かないわけにはいかない。
しかも、公開リハーサルもあり、フルシャのまるで魔法のような音楽づくりの秘訣を知ることができるかもしれない。
しかし、公開リハは、最初の一音からすでに完全にフルシャの音になりきっており、ほとんど完成されていたので、秘訣はさっぱり分からなかった。
おそらく、昨日までのリハーサルでフルシャはほぼ全てを伝えきり、都響のメンバーも全てを消化吸収したのだろう。
あるいは、かの伝説的な巨匠フルトヴェングラーのように、フルシャもまたそこに「いる」だけで、オーケストラをフルシャの音に変えてしまう魔力を持っているのだろうか。
「Thank you」と何度も言いながら、終止穏やかな様子でリハーサルを進めていたフルシャ。
第1曲「ヴィシェフラド」の中間部、フガートが終わった後の金管による「ミソドソミソドレミ」(階名表記)のパッセージを、やや長めに取るように、またシンバルをやや早めに叩くように指示していた。
また、同曲の最後、ヴィシェフラドの主題が高らかに回帰するところでは、ハープによるアルペッジョをしっかり出すよう指示していた。
第2曲「モルダウ(ヴルタヴァ)」では、ヴィオラと第2ヴァイオリンによる伴奏音型に軽いアクセントをつけてうねりを表現したり、水の妖精たちの場面で、フルートのオブリガートを「心地よく歩くようなテンポで」奏するよう指示したりしていた。
また、終曲「ブラニーク」では、クライマックスへ向けての音量配分のしかたを指示していた(早くから盛り上がりすぎないように)。
こうした指示はいずれももっともなものだったが、でもそれだけでフルシャのあの音楽ができあがるわけではないだろう。
結局リハーサルからしてすでに感動してしまい、秘訣は分からずじまいだった。
ただ、クラリネットだったかフルートだったか、ちょっとしたパッセージのアーティキュレーションを細かく指示していて(どこのことを言っているのかよくわからないくらいの、何気ない箇所)、フルシャの耳の良さがよく分かった。
また、「モルダウ(ヴルタヴァ)」のポルカの部分に入る直前、リタルダンド(減速)を大げさにせず、「自然に」するよう指示しており、「自然さ」というのが彼のキーポイントの一つであることを改めて認識した。
そして、どこの部分だったか、「もっと弱音で」という感じに手で制することで、きわめて繊細な弱音が生まれてきた瞬間があったが、このような弱音もまた彼の特に意識しているところなのだということが確認できた。
そして、本番。
もう、完璧だったというほかに、言葉が見つからない。
「ヴィシェフラド」冒頭のハープ、そしてそれに続くホルンやファゴットの、柔らかさ。
再現部直前の、最弱音による弦の刻みの上にたゆたうクラリネットの繊細さと、再現部に入った瞬間の空気の変化。
「モルダウ(ヴルタヴァ)」の有名なメロディを奏するヴァイオリンの、この上ない美しさ。
「シャールカ」の中間部直前の、きわめて甘美な、それでいて濃すぎず端正な、チェロのため息。
また同曲コーダでの、「もっと、もっと」というように段階を踏んで高まっていくアッチェレランド(加速)の、信じがたいほどの自在さ、適切さ。
「ボヘミアの森と草原から」のフガートの繊細な美しさと、その後に出てくるホルンの、まるで深い森からひらけた草原へ出たかのような、さわやかな表現。
「ターボル」冒頭の、混沌と明快とが同居しているというほか表現しようのない、精妙な弱音(ホルンなど、茫々たる弱音なのにアーティキュレーションが明快この上ない)。
そして「ブラニーク」の、感動的なコーダ!
ここでは、トロンボーンをはじめとする金管が大きく咆哮し、フス派のコラールを思い切り奏するのだが、その音はあくまで柔らかさを失わないのである。
こうやって素晴らしかった箇所を挙げていくことはできない。
全ての部分が完璧で、理想的な音楽表現だったからである。
フレージングも音量も、音楽の起承転結も、何から何までぎこちなかったり飛び出てしまったりする部分が少しもなく、完璧にコントロールされている。
「シャールカ」でのクラリネットも、「ブラニーク」でのオーボエもホルンも、本当に「これしかない!」というような音楽表現になっていて、団員の一人一人にまでフルシャの音楽が行きわたっている気がする。
おそるべきコントロール能力である。
それでいて、人工臭は全く感じられず、きわめて自然で朗らかなのである。
テンポも本当に自在に変化するのに、わざとらしさが微塵もなく、それこそかのフルトヴェングラーについて評される「推移の達人」という呼び方が、フルシャにもよく当てはまると思う(もちろん、フルトヴェングラーとフルシャとは全く違う音楽づくりだけれど)。
とにかく、今はもう、このような演奏会に接することができたことへの感謝しかない。
フルシャには、都響との契約が終わっても、ぜひできるだけ来日してほしいものである。
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