パスカル・ロジェ 「月の光」
~ドビュッシー・ピアノ名曲集~
【日時】
2017年7月1日(土) 開演 15:00
【会場】
あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール (大阪)
【演奏】
ピアノ:パスカル・ロジェ
【プログラム】
ドビュッシー:
アラベスク 第1番 ホ長調
版画 より 「雨の庭」
映像 第1集 より 「水の反映」
映像 第2集 より 「金色の魚」
前奏曲集 第1集 より 「沈める寺」
子供の領分
「グラドゥス・アド・パルナッスム博士 」
「象の子守歌」
「人形のセレナード」
「雪は踊る」
「小さな羊飼い 」
「ゴリウォッグのケークウォーク」
― 休憩 ―
ベルガマスク組曲
「前奏曲」
「メヌエット」
「月の光」
「パスピエ」
映像 第2集 より 「そして月は廃寺に落ちる」
前奏曲集 第2集 より 「花火」
前奏曲集 第2集 より 「月の光が降り注ぐテラス」
前奏曲集 第1集 より 「亜麻色の髪の乙女」
版画 より 「グラナダの夕べ」
喜びの島
※アンコール
ドビュッシー:
版画 より 「塔」
前奏曲集 第1集 より 「ミンストレル」
フランスの名ピアニスト、パスカル・ロジェのリサイタルを聴きに行った。
オール・ドビュッシー・プログラムである。
話が飛ぶが、私はフランス音楽の演奏というと、まず指揮者ピエール・ブーレーズを思い浮かべる。
彼は、1960~70年代において、フランス音楽(を中心とする、ドビュッシーに始まる近現代音楽。以下単に「フランス音楽」とのみ表記する)の演奏の最先端を行き、見事に時代を引っ張っていたのではなかったろうか。
それは、ちょうど同じような時期に、ヘルベルト・フォン・カラヤンがドイツ音楽(を中心とする、ベートーヴェンに始まるロマン派音楽)の演奏の規範を作ったのと、似ている気がする。
ブーレーズの演奏は、感傷や誇張を排し、各声部の明瞭さや響きの調和といった純音楽的なアプローチに徹したものであり、彼は現代へとつながる新しい流れの一つを切り開いた人であるように思う。
甘ったるさが全くないのに、スカスカにならず、澄んだ響きが聴かれる彼の演奏こそは、私にとってフランス音楽演奏の原点となっている。
さて、そんなフランス音楽を、ピアノで聴こうと思った場合、誰の演奏を聴いたら良いか。
ドイツを中心とするロマン派音楽について、上記カラヤンのような役割を、ピアノにおいて果たしたのは、私はマウリツィオ・ポリーニだと思っている。
彼はカラヤンと同様に、彼以前の巨匠たちにみられたような「音楽のドラマ性」と、楽譜に忠実な、一つ一つの音符や休符の正確さを重視しつつ全体を作り上げていくような「音楽の構築性」とのバランスにおいて、現在にも通じる一つの規範を作り上げた人だった。
では、ブーレーズの演奏をピアノで体現したような演奏家は、いるだろうか?
私は、それはアラン・プラネスだと考えている。
プラネスはそれほど有名なピアニストとはいえず、録音も決して多くないため、後続のピアニストたちへの影響力という意味では、ポリーニに及ぶべくもないだろう。
しかし、影響力はともかく、純粋に音楽的な意味では、彼ほどブーレーズに近いピアニストはいないように思われる。
彼は、ブーレーズ主宰の前衛音楽演奏団体である「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」に一時期所属していた。
その影響なのかどうかは分からないが、彼の演奏はブーレーズ同様、誇張や色付けが全くなく、「自然さ」を保つよう厳格にコントロールされている。
これは、他の多くのピアニストはもちろん、彼と同じくアンサンブル・アンテルコンタンポランに所属していたことのあるピエール・ロラン=エマールやフローラン・ボファールの演奏からさえ、聴くことのできないものである。
プラネスの録音としては、ピリオド楽器によるドビュッシーのピアノ曲集が比較的有名だが、これらはピリオド楽器のため彼のすごさがやや分かりにくいのと、テクニック的にやや衰えが聴かれる(とはいえ、凡百の演奏よりはよほど素晴らしいけれども)。
彼の真髄が聴けるのは、ドビュッシーの前奏曲集第1、2巻(旧盤、Apple Music)と、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1、2番(カントロフとの共演盤、CD)だと思う。
特に、ドビュッシーの前奏曲集の演奏は、完成度の高さにおいて他に類を見ない。
例えば「ヴェール」では、三度の和音の音型が、しばしばされるような「崩し」なしに正確なリズムで奏され、音価や音量がしっかりとコントロールされ、ペダルは決して濁されることなく、全音音階ならではの独特な美しい響きがよく活かされている。
「西風の見たもの」では、荒々しい描写のような演奏がなされることが多いけれども、プラネスの場合は耳をつんざくような粗いフォルテは全く聴かれず、最強音であっても各和音がクリアにコントロールされ大変美しい。
まさに、ブーレーズの演奏の特徴と共通している(ブーレーズの強音がいかにやかましくなくすっきりしているかについては、彼の振ったラヴェルのピアノ協奏曲の終楽章とか、バルトークのピアノ協奏曲第2番あたりを聴くとよく分かる)。
それでは、ブーレーズやプラネスのような演奏だけが正しく、他の演奏は間違っているのかと言われると、そうではないだろう。
特にドビュッシーにおいては、もっと自由な感性の飛翔のようなものが聴かれてもいいのではないかという意見もありうると思う(ドビュッシー自身の録音やピアノロールが残されているが、そのような「エスプリ」と言いたくなるような自由な表現が聴かれる)。
さらに、最近の指揮者の中には、ヤニク・ネゼ=セガンのように、細部への極度の集中力というか、とことんまで繊細な表現の追求をしながらも、全体として極端さや誇張はさほど感じないような、「自然な繊細さ」とでもいうべき驚くべき表現力を身につけた人も出てきている。
ネゼ=セガンの録音を聴いて、私はフランス音楽の演奏の新たな局面を感じ、ブーレーズの呪縛(というと聞こえが悪いけれど)からようやくいくぶん逃れたように感じたのだった。
しかし、ピアノ音楽において、ネゼ=セガンのようなインパクトを持った最近の演奏家はと言われると、私には思い浮かばない。
プラネスの録音はきわめて少ない(特に彼の全盛期のもの)にもかかわらず、フランスのピアノ音楽において、私は未だにプラネスの演奏以外にそのあるべき姿を思い描くことができないのだった。
脱線が、長くなった。
話を、今回のパスカル・ロジェに戻す。
彼の演奏は、上記のプラネスとは全く異なる特徴を持っている。
彼は細部の表現へのこだわりのあまり、その音楽の流れはしばしば停滞したり、逆にさっと通りすぎてしまったりする。
また、ある声部を極端に強調したり、逆に曖昧模糊にしたりもする。
こういった彼独自の表現は、フランス特有の「エスプリ」なのかもしれない。
実際、彼自身はフランス音楽特有の「イントネーション」を表現することにかけて、かなりの自信があるようである(焦元溥 著 「ピアニストが語る! 音符ではなく、音楽を! 現代の世界的ピアニストたちとの対話 第二巻」にそのようなことが書いてあったように思う)。
しかし、彼のやり方は、上記のドビュッシー自身の録音とも、また違う気がする。
ベルガマスク組曲の「前奏曲」や「月の光」でもそうだが、ロジェの演奏では、一部の音が書かれている音価よりも極端に伸ばされることがよくある。
また、映像第1集の「水の反映」のアルペッジョは遅くなったり速くなったり、とにかく自由である。
クセが強く、私にはあまり合わないように感じる箇所が多かった。
有名な「亜麻色の髪の乙女」だって、いやにさらさら流れてしまうなぁと思ったら、また停滞したり。
その分とても繊細なのかというと、そうでもなかったり(例えば版画の「雨の庭」の中間部に出てくる子守歌などは、意外におおらかな歌わせ方で、もっと繊細なピアニッシモで弾いてほしかった)。
また、版画の「雨の庭」やベルガマスク組曲の「パスピエ」、前奏曲第2巻の「花火」など、タッチ・コントロールにむらがあり、テクニック的にやや衰えたかな、と思うような箇所も少しあった。
しかし、彼の音色はとても美しかった。
モノクロームというよりは、色彩豊かなフランス印象派絵画のような音。
これだけでも一聴の価値はあると思う。
また、子供の領分の「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」だとか、版画の「グラナダの夕べ」の中間部の主題を左手のオクターヴで歌わせる部分のように、彼特有の起伏やルバートがとてもしっくり来る味わい深い箇所もあった。
なんだかんだと賛否両論書いてしまったが、アンコールで彼のつぶやいた一言「このコンサートは私にとって特別です、私の大好きな国である日本で、私の大好きな作曲家であるドビュッシーの曲が弾けるのですから」を聞いて、まぁ社交辞令かなと思いながらも何やら嬉しくなり、応援したくなってしまうのだから、現金なものである(笑)。
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