NHK交響楽団演奏会 大阪公演
【日時】
2017年5月30日(火) 開演 7:00pm (開場 6:15pm)
【会場】
NHK大阪ホール
【演奏】
指揮:井上道義
ピアノ:小林愛実
管弦楽:NHK交響楽団
(コンサートマスター:伊藤亮太郎)
【プログラム】
ビゼー:「アルルの女」組曲 第1番
モーツァルト:交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488
ビゼー:「アルルの女」組曲 第2番
※アンコール
ビゼー:歌劇「カルメン」より 第3幕への間奏曲
N響の演奏会を聴きに行った。
N響の演奏を生で聴くのはこれで2回目だが、1回目は東京・春・音楽祭でのヴァーグナー「神々の黄昏」の演奏会形式上演という特殊な状況だったこともあり(そのときの記事はこちら)、N響をゆっくり堪能できたのは今回が初めてと言ってもいい。
それに、今回は指揮が大フィルでおなじみの井上道義であり、比較がしやすかったという面もある。
冒頭のビゼー「アルルの女」組曲 第1番からして、N響の力強さに圧倒された。
NHK大阪ホールという会場も初めてだったが、2階の最後席だったにもかかわらず、全く不足を感じさせないパワーがあった。
管楽器は一人一人安定感がすごいし、弦楽器は音が分厚い。
「アルルの女」は16型の大編成だったため、そのように感じるのかとも思ったが、次のモーツァルトの「ハフナー」では10型のごく小さな編成であるにもかかわらず、やはりパワフルな演奏が聴かれたのには驚いた。
全体に、例えば読響の弦からは「洗練」を感じるのに対し、N響の弦からは「華やかさ」「力強さ」を感じた。
これには、指揮者の違いも関与しているのかもしれないが。
また、N響には他のオーケストラに比し、明らかに男性奏者の割合が多かった。
彼らの演奏に強力なパワーを感じるのは、もしかしたらその点も関係しているのかもしれない(関係ないかもしれないが)。
いつか、都響も生で聴いて、N響や読響と比べてみたい。
指揮の井上道義は、彼らしいいつも通りの特徴―意外と端正な音楽づくりで、しかし「完成度」や「洗練」にはそれほど拘らず、むしろ泥臭いガッツさえあり、なおかつどこか艶のあるカンタービレがそこかしこに聴かれるような演奏―を今回も存分に発揮していた。
特に、「ハフナー」におけるメロディの歌わせ方や(ピリオド楽器団体の演奏のようなスマートな軽やかさとは違った、連綿たるカンタービレ)、ティンパニの強調のしかたなどに(このティンパニはモダン楽器でなく、硬く引き締まった音のするピリオド楽器)、彼ならではの特徴がよく感じられた。
休憩をはさんで、私にとっての今回のメイン・プロ、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番が演奏された。
若くしてすでに日本のピアノ界を背負って立つ一人となったピアニスト、小林愛実。
彼女の演奏会には、できるだけ行こうと考えている。
モーツァルトのピアノ協奏曲第23番というと、あまりに傑作であるためか、理想の演奏にはなかなか出会えない。
現時点では、ピリス/グシュルバウアー/グルベンキアン管盤(NML/Apple Music)か、あるいは以前YouTubeにアップされていた、アンスネス/アーノンクール/ウィーン・フィルの演奏(おそらくラジオ放送音源、未CD化)あたりが好きである。
今回の小林愛実は、これらにかなりのところまで迫る演奏を聴かせてくれた(なお、今回のピアノはスタインウェイ)。
滑らかに紡がれる音階には表情がふんだんにつけられ、決してぶっきらぼうにならず、「モーツァルトの音階」の特別な美しさがとてもよく伝わってくる。
第1楽章再現部冒頭に出てくる10度の音程による両手のユニゾンも、全くぎこちなさを感じさせず滑らかで流麗であった。
ただ、完全に満足したかと言うと、そうではない部分もあったのも確かである。
それは、なぜなのか。
その原因は、私には3つほど想定される。
1つ目は、「オーケストラとの合奏」であること。
彼女は、幼い頃からオーケストラとの共演を数多く重ねてきており、オーケストラとの演奏経験が不足しているというのは、おそらく当たらない。
今回も、また前回聴いたショパンの協奏曲も(そのときの記事はこちら)、決してオーケストラに飲まれることのない、かといって浮いてしまうこともない、堂々たる共演ぶりであった。
ただ、前回のショパンに比して、今回やや「窮屈そう」な箇所がときに聴かれたような気がしたのは、この曲が古典派の曲であることが関与しているのかもしれない。
彼女ならではの自由なファンタジーが、やや発揮しにくい、という箇所もあったか(それでも大変に素晴らしい演奏なのだが)。
例えば、第1楽章のカデンツァなど、オーケストラのないソロ演奏の部分では、それこそ水を得た魚のように、彼女ならではのきわめて繊細なこだわりの表現が最高度に発揮されていたのが印象的だった(音階上行音型のフレーズの美しい収め方や、和声の変わるところでの変幻自在な音色の変え方など)。
また、音量面の問題もあるかもしれない。
オーケストラと音量的に互角に張り合おうと思うと、どうしても力まざるを得ない場合がありそうである。
例えば、第1楽章の第2主題の後に来る経過句、ここでは短調に翳って、また長調に戻って、といったパターンが繰り返される。
この、長調に戻る際の、ぱっと光が差すような、花開くような美しい陽気さを、オケをバックに1台のピアノで表現するというのは、難しいことなのだと思う。
小林愛実の場合も、少し力みが出てしまっていた。
まぁ、ここは上記のピリスやアンスネスの演奏でもあまり満足いかないので、本当に難しいのだと思う(アンスネスがもしセッション録音してくれたら、この箇所もきっとうまくいくと思う)。
2つ目は、彼女の音楽の方向性。
彼女の音楽は耽美的・蠱惑的で、麻薬的な美しさがある。
「不健康な美」と言いたくなるような、「陰」と「陽」で言うと「陰」のほうに傾いた美しさを持っている。
そんな彼女の音楽性は、ショパンの音楽のある面との適性がきわめて良く、憧憬に満ちたロマンティシズムを感じさせてくれる。
そんな彼女の音楽性は、モーツァルトには少し合わない場合もある、ということなのかもしれない。
今回の第23番では、第2楽章のメランコリックな音楽において彼女の演奏は俄然輝きを増し、素朴でシンプルなメロディが全く棒弾きになることなく、隅々まで美しい情感の込められた素晴らしい演奏となっていた。
それでも、音楽は決してショパンになってしまうことはなく、きちんとモーツァルトらしい古典的節度を保っているのが、また素晴らしい。
ただ、その後第3楽章に入るとき、ここでは「天国的な陽気さ」ともいうべき、その場の空気を一斉に変えるような美しく軽やかな陽気さがほしいのだが、どうしてもやや生硬な演奏となってしまっていた。
その後のエピソード主題だとか、経過句のゼクエンツ進行だとか、何気ない音階上行&下行音型だとか、多くの箇所においてきわめて表情豊かな表現が聴かれたし、物足りなさを感じるような箇所はわずかではあったのだけれど。
なお、3つ目の原因としては、私が非現実的なまでに贅沢を言っている、ということが考えられる。
案外これが一番大きい要因かもしれない。
色々書いたが、十分に美しい名演だったことは、再度強調しておきたい。
ピアノ協奏曲が終わったのち、「少し時間があるから」ということで井上道義のスピーチがあった。
「今日のN響はとても調子が良い。オーケストラというものはいつも調子が良いとは限らない。皆さんはラッキーです」
「今日は、アルルの女でモーツァルトをサンドイッチした」
「アルルの女はカルメンと同じく、男を惑わす存在。そういう女、皆さんはどう思いますか? 好きですか? どっちもありだな」
「アルルの女はごく小編成のオケのために書かれたけれども、今回はせっかくのN響なので大編成でやります」
「これ以上しゃべると失言するので、ここらでやめておきます」
といった、しゃべり慣れたといった印象のあまりない、何ともとりとめのないスピーチで、彼らしくて何だかとても面白かった。
最後のビゼー「アルルの女」組曲 第2番では、N響のパワーを最後まで存分に堪能させてくれた。
また、第3曲「メヌエット」でのフルートの美しさ―やや肉厚な、朗々と響く美しい音―は特筆に値するもので、高音でもかすれることなく、ちょっとしたルバートも絶妙で、もしかして今回の演奏会のおいしいところ全部持って行った?と言いたくなるほどだった。
終演後、井上道義の「フルートうまいでしょ。フルートコンテストでも最近は男のフルート奏者が全然いない、今どき貴重です。というわけで同じくフルートが活躍するカルメンの第3幕への間奏曲やります」といった紹介があり、アンコールが奏された。
こちらも同様にフルートが大変美しく、おいしいところをさらに持って行った感があった。
余談だが、ハフナーの第2楽章再現部で、第2主題の伴奏として弦が高音で同音を連続で奏するのだが、ここがフラジョレット奏法のように聴こえた。
このような版もあるのだろうか。
また、「アルルの女」組曲 第2番の終曲「ファランドール」で使用する打楽器は、小太鼓かタンバリンか何かかと思っていたのだが、正式には「プロヴァンス太鼓」という楽器であるらしく、今回初めて見た。
紐で肩からつるすタイプの太鼓で、片手で叩くため、両手で叩く小太鼓に比べ難しそうであった。
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