第28回 大阪音楽大学学生オペラ 「フィガロの結婚」(第二日)
【日時】
2017年02月19日(日) 13:00 (開場) 14:00 (開演)
【会場】
ザ・カレッジ・オペラハウス (大阪)
【キャスト】
アルマヴィーヴァ伯爵:仲田尋一(大学院1年)
アルマヴィーヴァ伯爵夫人:2幕 東里桜(大学4年)、3幕 森千夏(大学院2年)
スザンナ:1幕 乾彩子(大学4年)、2幕 小平瑛里佳(大学専攻科)、3・4幕 村岡瞳(大学院1年)
フィガロ:湯浅 貴斗(大学4年)
ケルビーノ:堀畑綾子(大学4年)
マルチェリーナ:滝沢真由(大学4年)
バジリオ:加護翔大(大学4年)
ドン・クルツィオ:福西仁(大学3年)
バルトロ:外川大樹(大学3年)
アントニオ:日野大輝(大学4年)
バルバリーナ:鳥居由来(大学4年)
花娘:野尻友美(大学4年)、庄司優歌(大学4年)
指揮:新通英洋(特任教授)
演出:中村敬一(客員教授)
合唱:大阪音楽大学合唱団
管弦楽:大阪音楽大学管弦楽団
チェンバロ:梁川夏子(講師)
照明プラン:原中治美(大阪共立)
衣装コーディネート:村上まさあき(東京衣裳)
舞台監督:岩崎由香(ザ・スタッフ)
演出助手:薮川直子
舞台監督助手:角田奈緒子(ザ・スタッフ)、住田佳揚子(ザ・スタッフ)
声楽指導:荒田祐子(教授)、田中勉(教授)、田中由也(教授)、松田昌恵(教授)
【プログラム】
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」 K.492
「フィガロの結婚」を観に行った。
この曲の実演に接するのは本当に久々で、おそらくもう13年も前に、小澤征爾/ウィーン国立歌劇場の東京公演に行って以来である。
あのときは意を決して聴きに行ったのだったが、ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラや、ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツの名盤にとらわれすぎていて、素直に楽しめなかった面があった(特に歌手に不満を感じてしまった)。
それから長い年月を経て、色々な録音も聴き(今ではクルレンツィス指揮ムジカエテルナ盤、カンブルラン指揮パリ・オペラ座盤あたりが好きである)、私も柔軟になったということだろうか、今回の演奏は大いに楽しむことができた。
「フィガロの結婚」、やっぱり名曲である!
400年を超えるオペラの歴史の中でも、この曲ほどの名作はなかなかないのではないか。
喜劇を開始するにふさわしい、軽快な序曲。
それが終わり、第1幕冒頭のフィガロとスザンナの二重唱、その前奏からしてすでに、秋晴れの空のようにさわやかで美しく、純粋で透明な愉悦とかなしみを湛えていて、「あぁモーツァルト!」と言いたくなる。
余人には到底書くことのできない音楽である。
書法自体はシンプルなのに、どうしてこんなにも素晴らしいのか。
バッハやベートーヴェンが素晴らしい理由については、多少なりとも言葉に表すことができる気がするし(対位法や動機労作など)、他の作曲家についても同様だが、モーツァルトが素晴らしい理由については、言葉ではほとんど表現することができない。
私にとって、永遠の命題である。
話を、「フィガロ」に戻す。
その後も全編、隅から隅まで美しい音楽で、心に染みてこない箇所は少しもない。
「もう飛ぶまいぞこの蝶々」や「恋とはどんなものかしら」をはじめとする各アリアは、本当にどれも素晴らしい。
脇役であるバジリオやバルトロのアリアに至るまで、美しい。
中でも第4幕の、スザンナのレチタティーヴォとアリアは、さわやかさと艶との絶妙なバランスで、他に代えがたい珠玉の名曲となっている(これまた、レチタティーヴォの前奏からして一気に惹きこまれてしまう)。
アリアだけでなく、重唱も素晴らしい。
特に、第1幕のスザンナ、伯爵、バジリオによる三重唱(隠れていた伯爵が飛び出して口論する場面)や、第2幕のスザンナ、伯爵夫人、伯爵による三重唱(部屋の鍵を開ける開けないでもめる場面)、これらの重唱の充実ぶりといったら!
場面としても緊迫した箇所だが、それを音楽が完璧に体現しているといっていい。
また、歌だけでなく、間奏ですら素晴らしい。
例えば、第3幕の、フィガロがバルコニーから飛び降りたと嘘をついたことを言い訳してうやむやにし、パーティへと移っていく場面。
遠くから行進曲が聴こえてきて、「Ecco la marcia」というフィガロの合図とともに、結婚パーティの準備が始まり、行進曲が近づいてきて、合唱ののち、皆でゆったりとしたファンダンゴを踊る。
ここの一連の音楽、本当に、大げさに言えば胸が締め付けられるほどに好きである。
何がどう素晴らしいかと聞かれると、やっぱりうまく答えられないのだが。
音楽の「粋」のようなものが、凝縮されているような気がする。
そして、極め付けは、やはり第4幕の最後、伯爵がまんまと罠に引っかかる場面。
ここは本当に面白く、唖然としてひざまずく伯爵を見ると、ネタを知っていても、やっぱり笑ってしまう(今回の公演でも、笑っている観客が多かった)。
笑ってしまうのだが、その後泣いてしまうのである。
なぜって、ここのゆったりとしたテンポによる重唱、これがあまりに美しいから。
「許してくれ」と懇願する伯爵と、許してしまう伯爵夫人。
ここの音楽は、登場人物たちや聴き手をあまりに優しく包み込むので、心を衝かれずにはいられない。
神童の名を欲しいままにしたモーツァルトは、芸術に対しあまりに真摯で、おべっかとか世間体とか、人生のこまごまとした雑事には一切気を留めなかったから、その純粋な心は傷つくことも多々あっただろう。
しかし、幼少時から色々な目にあって人生の酸いも甘いも知り尽くしたモーツァルトは、そういった人生の些事に至るまで、全てを許すのである。
そして、最後は彼特有のカラッとした音楽で、べとつくことなく哄笑とともに曲は終わりを告げる。
こんな音楽は、他に誰が書いただろうか?
歌手たちは、みな丁寧な歌唱を聴かせてくれて、とても良かった。
声量は、それほど大きいわけではない人も多かったし(ただ、会場は小さめのため、あまり問題なかった)、歌の表現として練られきっているわけではない人もいた。
しかし、丁寧に音程を取ろうとしていることが皆の歌唱から窺われたし、粗く歌い崩すようなことがなかったので(歌い崩しは一流の歌手でも聴かれることがある)、上述のようなモーツァルトの音楽の美しさを、十分に味わうことができた。
中でも、伯爵夫人役の2人と、スザンナ役の3人は、傑出していたように思う。
特に、第3、4幕の伯爵夫人役の森さんは、堂々たる歌唱で、声量も十分にあり、立派だった。
アリア「あの素晴らしかったときはどこへ」では、繰り返しの際に、より弱音の繊細な表現が聴かれたならば、なお良かったかもしれないが。
また、第2幕のスザンナ役の小平さんは、余裕のある美しい歌唱もさることながら、動作から表情に至るまで生き生きとした演技が際立っていた。
その他の人たちもみな奮闘しており、例えば上述の第1幕の三重唱では、バジリオが「Così fan tutte le belle(女はみんなこうしたもの)」と歌う箇所があるのだが、ここは音程が荒れることが多い気がするが、バジリオ役の加護さんは丁寧な歌唱を聴かせてくれた。
ケルビーノ役の堀畑さんも、少年らしい雰囲気がよく出ており、またアリア「自分で自分が分からない」(これも音程が荒れることが多い気がする)も丁寧に音程を取ろうとする様が感じられた。
オーケストラも、良かった。
全体的にじっくりとしたテンポによる丁寧な音楽づくりで(指揮者の意向が大きいのだろうが)、泡立つシャンパンのような「粋」はあまりなかったが、丁寧な表現が好ましかった。
スビトピアノ(音量を急に小さく)など、表現がしっかり統一されていてなあなあになっておらず、良かった。
ヴァイオリンなど、さすが音大生のオーケストラだけあって、音程が確かなのか、純度の高いような印象のある響きが聴かれた。
管も皆うまかった。
フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」の終盤でのトランペットによる三連符など、重くならない軽快なリズム感が小気味よく、印象的だった。
今回のような、こじんまりとした会場は、声を張り上げる必要があまりなく、好印象だった。
モーツァルトの時代も、おそらくこれくらいの大きさの会場だったのではないか。
東の果ての国の音楽学生たちが、このような名演を繰り広げていること、天国のモーツァルトも喜んで聴いてくれていただろうか。
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