ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 大阪公演 メータ ブルックナー 交響曲第7番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演


【日時】

2016年10月6日(木) 19:00開演

 

【会場】

フェスティバルホール(大阪)

 

【出演】

指揮:ズービン・メータ

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 

【プログラム】
モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調 K425「リンツ」
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 WAB 107(ノヴァーク版)
 

 

 

 

 

この演奏会については、何と感想を言ったら良いものだろうか。

本当に、圧倒的な演奏会だった。

私はこれまで、ウィーン・フィルの公演を東京で聴いたことがある(ゲルギエフの悲愴や、小澤征爾のフィガロ)が、それはもうだいぶ昔になる。

そして、数年前にウィーンに行ったときも「シモン・ボッカネグラ」を観たり、マゼール指揮の自作やドビュッシー「海」の演奏会を聴いたりしたが、これらはプログラム的にウィーン・フィルの魅力を真に発揮するものではなかったかもしれない。

そして、私は最近カンブルラン&読響や、西本智実&大阪響などの演奏会を聴き、「日本のオーケストラでも指揮者が良ければ素晴らしい名演になりうるし、高いお金を出してわざわざ外国のオーケストラを聴かなくても良いのではないか」と考え始めていた。

もちろん、ネゼ=セガン&フィラデルフィア管も素晴らしかったが、あれは指揮者が良かったことも大きいだろうし、ハイティンク&ロンドン響のときは、ハイティンク御大の指揮にもかかわらず「まぁこんなもんかな」くらいの感想しか抱けなかった。

前置きが長くなったが、つまりは外国のオーケストラといえども、日本のオーケストラに毛が生えた程度なのではないか、と考えていたのである。

この考えは、今でもある程度正しいと思っているし、実際に日本のオーケストラの実力の高さもどんどん上がっているんだろうとは思う。

 

しかし、今回のウィーン・フィルの演奏会を聴いて、この考えはかなりのところまで覆されてしまった。

今回のプログラムはモーツァルトとブルックナー、まさにウィーン・フィルの伝統のど真ん中、彼らの面目躍如たる曲目である。

メンバー一人一人に、余裕と自信に満ち溢れているのが見ていて分かる。

ほとんどオジサンばかりの楽団だが(女性は2-3人しかいなかった)、そのむさくるしさがとてもかっこいい。

特に、コンサートマスターのライナー・ホーネック。

彼はもっと若いイメージだったが、いつの間にか白髪・白鬚になり、脂の乗り切った感じで、威厳があってとてもかっこいい。

おそらくその隣は最近コンマスに就任したブルーメンシャインだったろうと思うのだが、「君、トップに座るのはまだ10年早いぞ」とでも言うかのような、ホーネックの威厳。

そして、ホーネックは演奏中も、身体をあまり大きくは動かさない。

日本のオーケストラのコンマスは、もう少し大きく身体を動かしている気がする。

ホーネックの身体の動かし方は、それほど大きくないにもかかわらず、何ともサマになっており、これまたかっこいいのである。

身体に染みついたウィーンの伝統なのだろうか。

 

演奏そのものから話がそれてしまったが、真に素晴らしいのはもちろん演奏だった。

前半のモーツァルトは、大オーケストラらしい、分厚いモーツァルト。

編成は小さめだったが、それでも最近の多くのオーケストラによるすっきりとした演奏とは一線を画した、伝統的な分厚いモーツァルトだった。

これに比べると、先日聴いたインバル&大フィルによるモーツァルト25番でさえ、もっとすっきりしていた気がする。

そして、このウィーン・フィルの分厚いモーツァルトからは、ウィーン特有の音色が香り立っていた。

うーん、なんだかんだ言われながらも、ウィーン・フィルの伝統はしっかりと守られている。

 

そして、後半のブルックナー。

こちらは、前の方の席だったのでよく見えなかったが、おそらく16型の大編成。

(実は、以前聴いたハイティンク&ロンドン響と同じブルックナー第7番だったため、このときと同じような右側の前の方の席をあえて選んで、比べてみようと考えたのである)

これは、本当に圧倒的な演奏だった。

冒頭の弦のトレモロ(細かい音の刻み)、これからして本当に「レベルが違う」。

弱音なのによく通るしっかりした音で、カスカスにならず、大変豊かで充実した音なのである。

余談だが、フルトヴェングラーの指揮は強烈な強音について言及されやすいが、本当は弱音が素晴らしい、と聞いたことがある。

そんなものかな、と思っていたのだが、今回ウィーン・フィルのこの冒頭のトレモロを聴いて(もちろんフルトヴェングラーの指揮ではないものの)、その意味がやっと分かった。

この、緊張感に満ちた、透徹した、染み通るような弱音は、録音では伝わりにくい(ただ、レオノーレ序曲第2番や3番の序奏など、フルトヴェングラーの弱音の緊迫感が録音でさえよく伝わる場合もあり、フルトヴェングラーの弱音は相当にすごかったものと思われる)。

話は戻るが、この冒頭のトレモロのあと、低弦により主要主題が奏される。

これがまた、実に豊かに、香り立つように湧き上がってくるのである。

比較して申し訳ないが、ロンドン響ではこうはならなかった。

そして、全楽器が少しずつ盛り上がっていくのだが、低弦が広々とした主要主題を奏する中、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがトレモロで、少しずつずれながら反復進行で1音ずつ下がってくるパッセージがある。

この部分の、何という美しさ!

第1・第2ヴァイオリンが、それぞれ本当に美しい、豊かで充実した、精妙な音を奏して、それらが協和音と不協和音(正確には倚音というべきか)を繰り返しながら、低弦のメロディとも調和して、空間に溶け合っていく。

こんな体験は、初めてだった。

日本のオーケストラも指揮者によっては本当に質の高い演奏を聴かせてくれるが、これほど豊かで分厚い音を出すのは聴いたことがない。

特に、第2ヴァイオリンやヴィオラといった内声楽器まで、まんべんなく充実しているのがすごい。

フォルテ(強音)の部分でも、ウィーン・フィルは実に充実した、迫力のある音を出し、聴いていて圧倒される。

広大なフェスティバルホールが初めて完全に鳴りきったと感じた。

 

では、日本のオーケストラ(というよりは、世界の数多あるオーケストラ)とは、いったい何が違うのか。

実際のところは分からないが、おそらく一人一人の実力が違うのだろう。

オーボエ、クラリネット、フルートといった木管楽器は、全くもって安定した音を出しており、なおかつ「これぞウィーン!」と言いたくなる音色であった(特に、第1楽章の展開部冒頭、木管アンサンブルが主要主題の反転形などを奏する部分)。

ホルンやトランペットといった金管楽器は、日本のオーケストラでも特にひっくり返ることが多い印象があるが、ウィーン・フィルではそういうことは全くなく、完全に安定していた。

第2楽章の最後にある金管のアンサンブルの部分、ここの迫力はすごかった。

そして、弦楽器の分厚く安定した音、ウィーンの音色!

ヴァイオリンなど、聴いているとときどき一人の音が突出して聴こえてくることがあるように感じた。

もしかしたら、一人一人がソロ・ヴァイオリニスト並みの音量を出すことができ、そしてそれぞれの奏者が団体の中に埋もれようとするよりは、自発的に奏しているのではなかろうか。

そう、彼らの演奏からは、常に自発性を感じるのだ。

指揮者の解釈云々よりも、彼ら自身の魂の音楽、といった印象を受ける。

彼らが他のオーケストラと違い、ここ何十年も常任指揮者を設定していないのも、その自発性の表れかもしれない。

指揮者には頼らない、また指揮者のカラーには染まりすぎない、伝統は自分たちの力で守る、とでも言うかのように。

とはいえ、今回の指揮者がメータでなく若い指揮者であったなら、演奏も違ったものになっていただろう。

メータは、おそらく若かりし売り出しの頃は、すっきりした演奏をする指揮者として認識されていただろうが、今聴くと、スタンダードな演奏ながらも重みがあり、往年の巨匠たちの香りを感じる。

ゆったりとした、悠揚迫らぬ堂々たる音楽づくり。

「メータのブルックナーなど聴く方が悪い」という名言(迷言?)が我が国にはあるが、なんのなんの、聴いてみると実に素晴らしいではないか。

メータだからこその、今回の重厚な名演であっただろう。

今回の演奏は、フルトヴェングラーやカラヤンといった、巨匠時代のマエストロたちの演奏を彷彿させるものであった。

特に、カラヤン&ウィーン・フィルによる1989年の同曲録音に、かなり印象が近かった(もちろん、メータはところどころフレーズの終わりをリタルダンドしてタメるのに対し、カラヤンはより自然なフレージングをする、などといった違いはあるのだが)。

あるいは、例えばフルトヴェングラーがオーストリア併合後のウィーン・フィルを守るため、彼らを率いてベルリン公演を行い、ウィーン・フィルの価値を印象付けることに成功した、伝説的な1938年の演奏会、このときもブルックナーの第7番が演奏されたのだが(残念ながらライヴ録音はされていない)、このときの演奏に近い点もあったかもしれない、そのようなことを妄想してしまった。

こういった、往年の巨匠たちに思いを馳せることのできるような、重厚でスケールの大きな名演を実現してくれたメータとウィーン・フィルのメンバーたちには、深く感謝するしかない。

本当に、至福のひとときだった。

 

このような演奏は、いったいいつまで聴けるだろうか。

メータはもう80歳だし、若い指揮者で彼のような重厚なスタイルの人は思いつかない。

ウィーン・フィルも、今はまだ生粋のウィーン人、オーストリア人が多いが、すでにメンバーの多国籍化が始まっている。

しかし、彼らの伝統継承への熱意が強いという話も聞いたことがあるし、今回の演奏会でもそれを感じた。

もしかしたら、なんだかんだ言いながらも常に最先端の道を進もうとするベルリン・フィルとは、違った道を取っていくのかもしれない。

彼らがどのような道をたどることになるのか、楽しみに見守っていきたいものである。