日本センチュリー交響楽団 第31回いずみ定期演奏会 飯森範親 ハイドン・マラソン ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

いずみ定期演奏会 No.31


【日時】

2016年6月17日(金) 19:00開演


【会場】
いずみホール


【演奏】
指揮:飯森 範親

オーボエ:ハンスイェルク・シェレンベルガー

日本センチュリー交響楽団


【プログラム】
ハイドン:交響曲 第19番 ニ長調 Hob.I:19

モーツァルト:オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314

ハイドン:交響曲 第58番 ヘ長調 Hob.I:58

ハイドン:交響曲 第7番 ハ長調 Hob.I:7「昼」


アンコール

ブリテン:オウィディウスによる6つのメタモルフォーゼ Op.49より 第1曲「パン」

※オーケストラのアンコールはなし






センチュリーの「ハイドン・マラソン」なるものが行われていることは、前から知ってはいたが、聴きに行ったのは今回が初めてである。

というよりも、今回はほぼシェレンベルガーを目的に聴きに来た。

あの華やかなりしヘルベルト・フォン・カラヤン、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の黄金コンビの全盛期に首席オーボエ奏者だったシェレンベルガーが来るとなれば、もう行くほかない。

同じベルリン・フィルのかつてのもう一人の首席オーボエ奏者、ローター・コッホのノーブルな音色が私は好きなのだが、シェレンベルガーはよりあし笛らしい鄙びた音色で、つまりよりオーボエらしい味わいがある。

彼の生演奏を聴くのは今回が初めてだが、黄金色に光り輝く彼のオーボエそのものと同様に輝かしいその音色を堪能することができた。

オーボエというのはかなり息を使う楽器のようで、かなり大きな息継ぎをしていたが、息継ぎ以外の部分、つまり音が鳴っている部分では、呼吸の大変さ、余裕のなさを感じさせる部分は少しもなかった。

どんなに急速なパッセージでも、流れるようによどみなく奏された。

モーツァルトでも、アンコールのブリテンでも同じことが言えた。

往年のベルリン・フィルの首席奏者としての実力は、未だ健在であった。

昨年、著名なクラリネット奏者、ポール・メイエを聴いたときの印象とは対照的だった(メイエは、そのあまりにも繊細な表現が私は大好きなのだが、昨年初めて実演で聴いたときには期待したほどの感銘は得られなかった)。


このように、素晴らしかったシェレンベルガーのモーツァルト、ブリテンだが、このコンサートのメイン・プロはハイドンである。

今回演奏されたハイドンの交響曲は、3つともおそらく聴いたことがなかった(実演・CDにかかわらず)。

ハイドンは味わい深いとはいえ、知らない曲を3つも聴かされるとさすがに飽きるかな、まぁシェレンベルガーが聴ければそれでいいか、と思っていたのだが、予想は完全に覆された。

ハイドン、これがとても素晴らしかったのである。

3曲とも、あくまでハイドンらしい爽やかさを湛えながら、それでいて三者三様の特徴があり、聴いていて全く飽きない。

すがすがしく駆け抜ける19番、まったりとした三拍子がきわめて魅力的な58番、そしてまるで協奏交響曲のような各楽器のソリスティックな動きが華やかな「昼」(ソリストたちも皆上手だった)、どれもとても良い曲だった。

そしてこれらの曲の適切なテンポ、音色、アーティキュレーション、フレージングを心得ている飯森範親、この人の演奏を聴くのも初めてだが、ただ者ではないセンスを感じた。何か特別なことをしているというわけではないのだが。

彼と同世代で、昨年シベリウスの交響曲第2番を振る(関フィル)のを聴いた藤岡幸夫もそうだが、彼らは国内の指揮者ということで不当に軽視されているようなことはないだろうか?

ただ、私も彼らの演奏を聴いたのはそれぞれ1回ずつのみなので、今後もぜひ何度か聴いて判断していきたいと思う。


少なくとも、この演奏会は本当に楽しく、そして洗練されたものだった。