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イエスはオリーブ山へ行かれた。
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朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
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そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
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イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
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こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
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イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
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しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
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そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
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イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
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女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
ヨハネによる福音書/ 08章 1~11
契約更新 (3)
ダビデの王国は神が夢見られた神の国を可視的に現した王国であった。しかし、これは不可能の中で現れた奇跡だった。ダビデの可能性ではなく、ただ神の御心によってなったことだからである。
神は資格のないダビデを召した。牧童を王に、罪人を義人に、敵を息子にされるこのすべての事はひたすら神の絶対主権的なみ恵みである。この召しを従う時に必要なのが‘希望するすべもない時に望みを抱く信仰’である。
ひたすら神の絶対主権的なみ恵み
子供の目に親が全能者であるように、ダビデには神がそのようであった。彼は全能な神を信じる信仰でゴリアトに勝った。この事はダビデをダビデにする事件になった。
イスラエルの中の誰も自分の可能性でゴリアトに立ち向かえる人はいなかった。世間を象徴するゴリアトの前に立った神の国の代表、ダビデはただ生ける神だけに注目して、ゴリアトに向かって走って行った。
彼は羊を飼う野原で獅子と熊を追い返しながら自分の能力になった神をすでに知っていた。彼に神は知識的に知る神ではなかった。
だから自分の可能性を期待しないで、生ける神をすっかり信頼して走っていく事ができた。彼は神を神だと知って信じていた。
自分の絶望が結論ではなくて、希望するすべもない時に神を望む信仰を神は喜ばれる。知識的だけで神を知るのは決して聖書が話す信仰ではない。
聖書はダビデを神の御心に適う者だと言う。彼は存在的な罪人であったが、主が自分の牧師であり、父であることを信仰で捕まったからである。神学的な知識を持っていながら決定的な瞬間には自分の計算を結論としなかった。彼は倒れた時すら倒れた自分ではなく、すべてを綺麗にさせる神を結論にした。
神を結論にせよ
神はそんな無能なダビデを助けられた。ダビデの王国は彼と一緒にいた勇士たちの助けで可能な事であった。これは神の助ける手で建てられる王国であることを見せる事である。(歴代下11:10) 数多い死の峠と失敗、そして、致命的な罪に陥ったダビデは神様の助ける手によって可能な人生であった。
主はその御手を‘人’を通じて示される。主の時に主の人を立てられて神の国が成り立つ事を見せられる。
ダビデの敵であるサウルの息子ヨナタンがダビデの一番仲の良い友たちになった。ミカル、祭司、アドラムの同士たち、決して、ひとつになれない、役に立たない人たちがダビデの王国の開国の功臣になった。
ひたすら主の御恵みのためであることのほかに何の説明が要るだろうか?<続く>
キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)
牧師の子供として育った私はとても律法的な人でした。高校の時初めて成人映画を見ました。二度と淫乱映画と映像を見ないと決心しましたが、その映像が私を誘惑し続けていたので自分の欲求に負けていました。
その後イエス・キリストを人格的にあってから主の愛に感激して宣教師の道を歩みたくてキリスト教学を専攻しました。
教会と学校では賛美の指導者として奉仕して聖い生き方を望んでいました。しかし淫乱の欲求は私の中で断つことができなかったです。付き合っていた人たちと数多くの罪を心の中で犯していたので罪に足を踏まないようにと思って彼らと別れました。
それで私の全部を愛してくれる今の夫に出会って結婚を決心したとき、自分の力と意思で押さえていた罪の本姓が現れました。罪と神様の聖さはともにすることができないとよくわかっていた私はだんだん主の視線を避けて主から離れるようになりました。
しかし牧師の娘であるので教会は通っていて仕方なく賛美も続けました。主の前で偽善的な生活を続けていましたが、再び悔い改めて夫と結婚したので罪深い昔の自分は終わったと思いました。
悔い改めと共に完全な自由をいただく
ある日堕胎が罪だというみ言葉を聞きました。私は他人の堕胎を心の中で批判しました。その時神様は完全に忘れていた以前のことを思い出させました。結婚前夫と罪を犯していた時生理がなかったので主に祈り叫んだことが思い出しました。
’神様、私まさか妊娠したのではないですよね。私は牧師の娘なので堕胎はできません。神様の栄光を汚すことです。妊娠でなければもう二度とこのような罪は犯しません‘ もし妊娠ならば親に嘘をついて手術を受けようと思いました。でも妊娠ではなかったです。神様はその時を思い出させながら言いました。’殺人者はあなたである‘ その声を聞いて十字架の前にひれ伏しました。
機会と環境さえ整えていたらもっと大きな罪を犯したかもしれない私、殺人と淫乱で主の前で高慢であったのは自分自身でした。’神様、私は死んで当然な存在です‘ その事実を認めると十字架の恵みが大きく感じられました。神様の御恵みと愛はここにいます。罪人である私のために十字架で死んでくださいました。
これからは主と共に十字架で死んだと宣言します。主の創造によって作られた私はキリストと共に復活してキリストのために生きていきます。私は今自由です。なぜならば主が私を許してくださって私に聖い服を着せてくださったからです。
私は夫と共に悔い改めて主の前に進み出て聖い家庭を作ります。主が私にゆだねてくださった宣教の使命に従うと決断します。私の主権を主にゆだねて主が導くところならどこでも従います。北朝鮮でもいいし、シリアでもいいです。あるいは近隣の教会でもいいです。主の臨在があるところで福音を伝えていきたいです。[GNPNEWS]
ハン・セミ
私にはどこに行っても‘ママ、ママ’と呼んで、いつもママの関心と愛が必要な三人の娘がいる。しかし愛する子供と当然喜ぶべき礼拝の生活が、今年配置された宣教団体の支部へ移してから忙しくなって疎かになっていた。そして日常的な会話だけが繰り返されていた。
ブサンに定着して4カ月になったある日、韓国語が読めるようになった7歳の娘に申命記6章を説明した。神様を愛する子供は御言葉を心に刻んで命を得ないといけないと言ってあげた。そして始めて子供に御言葉を声出して読むようにした。創世記1章を開いた。
始めてだったので子供は体をひねって周囲に視線を奪われたりもした。しかい知らない単語を聞きながら御言葉を全部読んでいた。
‘ヨンジちゃん、読むのは難しいでしょう?’
子は同意を得たい表情でうなずいた。
‘しかい神様は何をいっているのかな?’
子はすこし思い込んだ。
‘ママ、神様が始めの日、二日・・ 人を作った六日まで神様がみてよかったって!’
自分なりに理解した内容を少しは躊躇しながら、気付いたのを正確に説明した。瞬間神様が子供に分からせてくださったと思えて、胸がいっぱいになってきた。
子供たちと共にいてあげられなくて、いつも辛くて申し訳なく思っていた。しかし全然予想してなかった娘の聖書の理解に涙が出た。
“女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。(イザヤ 49:15)”
私は忙しさを口実にしていた子供との時間を、主は忘れることなく子供の命になってくださったのである。今まで共に礼拝をささげる交わりを持ってなくて、主に悔い改めた。また子供たちと一緒に神様の御恵みに感謝した。
振り返って見ると4カ月間の時間は主のみ心を知る恵みの時だった。動員と訓練の働きをしていて信仰の仲間たちに会っていて気付くいろんな思い。時には信仰のない態度だと彼らを判断したりもした。しかし時間が経って、その姿が自分の姿でもあることに気付いた。私に与えられた状況と環境の挑戦と限界の前で、私がどんなに弱いものなのか恥ずかしかった。
それで今年神様が下さった約束のみ言葉をもっと切実ににぎるしかなかった。
“愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く(ヨハネの第一の手紙 4:18)”
資格ない者を主のしもべとして呼んでくださった神様の豊かな恵みであり、それを私はいま代価なしでいただいている。[GNPNEWS]
チェ・ウンジュ宣教師
筆者は宣教師に献身して三人の子供を育てながら共同体に仕えていて、今年夫であるユン・ピルヨン宣教師と共にブサン地域で宣教、祈祷、動員の働き役として主の御恵みをいただいている。