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神様の国の復興と宣教完成のための新聞
‘福音祈祷新聞’のブログです。
福音祈祷新聞は、2010年‘神様の国の復興と宣教完成’を願って、
メディアで諸国を仕えるために建てられた巡回宣教団の
福音と祈祷メディアで製作する隔週新聞であります。

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、

「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 

ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、

そのとき、悲しみもだえ始められた。

そして、彼らに言われた。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 

それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、

彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。

「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 

更に、二度目に向こうへ行って祈られた。

「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、

あなたの御心が行われますように。」 

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 

そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 

それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。

人の子は罪人たちの手に引き渡される。 

立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 

マタイによる福音書 26: 36~46

さて、過越祭の前のことである。

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、

世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 

夕食のときであった。

既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、

イエスを裏切る考えを抱かせていた。 

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、

また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 

食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、

手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 

それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、

腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 

シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、

「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 

イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、

後で、分かるようになる」と言われた。 

ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、

イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、

あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 

イエスは言われた。

「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。

あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 

イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。

それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、

上着を着て、再び席に着いて言われた。

「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 

あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。

そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、

あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 

わたしがあなたがたにしたとおりに、

あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 

はっきり言っておく。

僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 

このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

(ヨハネによる福音書 13 : 1~17)

 

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、

キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、

神はわたしたちに対する愛を示されました。 

(ローマの信徒への手紙/ 05章 08節)

自分では解析できない、答えられない

人生の色々な出来事とか、質問に対して、

いくら考えても、どこを見ても、何を読んでも、

誰に聞いても答えを見つけられない時が沢山あります。

 

主イエスに合えてからは

そのさまざまの答えが主のもとにあることに悟りました。

私たちのために命を惜しまずに捨てられたその愛に

会わなければ人生のむなしさから抜け出せられません。

私がどこから来て、どこに行くのか、

私がなんのために生まれて来たのか、

それをわからないと人生はむなしく過ぎていくばかりです。

"主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。"

契約更新(2)

 

病んだ自分の王国に閉じ込められている私たちに、神様は神様の国を建てることを望まれる。その事がベツレヘム少年ダビデに起こった。彼には可能性など準備できたのが何もなかった。主の通路というにはからしの種のようにひ弱かった。それに比べてサウルの王国はしっかりしていた。いくら神様がサウルを廃位されたとしても、相変わらずサウルの圧倒的な権勢の前でダビデが王になると言う約束を誰が信じられるだろうか?

 

弱り目にたたり目のようにダビデは油を注がれてからより悲惨になった。ダビデには今、信仰が必要である。どんな信仰であるだろうか。なんの希望も持てられないその時に、希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰が必要なのだ。約束された神様が全能な方である事実を信じる信仰なのだ。

その信仰は、神様の約束が絶対信じられない状況の中でも言われた主体に注目するのだ。自分の考え、自分の確率、自分の経験、自分の可能性に落ちこぼれて計算機を叩くときではなくて、ひたすら約束の主体である神様を信じろってことだ。

 

神様は全能な方である。だから神様が言われた言葉も全能である。
神様の全能でなければ解決できない状況だからこそ全能な神様を信じなければならないのだ。
したがって、神様の望む信仰は絶対に信じる信仰、すなわち‘希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰’であるのだ。

 

その信仰はまた‘義と認められる信仰’である。主はアブラハムが完全に不可能になる時まで待てられた。余地が完全に遮断されるまで待てられた。そのとき、アブラハムの年が99才だった。自分も他人も皆が不可能を認めるしかない状況になってからやっとイサクを下さった。既に自分の体が衰えており(ローマ人への手紙4)、自分になんの可能性もないことを知った時、自分の可能性を探るのではなく約束された神様だけを信じたアブラハムの信仰を義と認めてくださった。主は‘私としてはできなくて、不可能だが、この事を可能にさせてくださる主が居られる!’と言う絶対信仰を要求させる。

 

この信仰は2000年後、ナザレ処女マリアにも発見できる。処女が子供を産むというのは常識はずれのことである。しかもその子が神様の息子であると言う事は被造物の常識と計算では本当に不可能な事だった。マリアが自分の考えでは‘そのような事がありえましょうか?’と聞いたときに、天使は‘神にできない事は何一つない’と答える。マリアの告白を聞いてみよう。‘私は主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように’(ルカによる福音書1)

 

私の確率が0%の状況の前で、また違う可能性を探し回っているのではないか?私たちの信仰の先にはいつも自分の可能性があったのではなかったのか?これは決して聖書が話す信仰ではない。

私たちの信仰の先はどこだろうか?

 

神様の人たち、信仰の人たちが持っていた信仰は、ずばり‘希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰’だった。これはひたすら生きておられる神様だけを信頼する信仰である。現実と状況をただして自分の可能性を計るのを聖書は決して信仰とは言わない。

神様の王国を信仰のなかったダビデを通して建たせる神様の勝利を見よう。この言葉を信じるなら‘神様の国の復興と宣教完成’そして‘私たちの時代に主が再び来られるその日の栄光’を見るのはかえて可能だと言わざるを得ないではないか。<続く>

[福音祈祷新聞]

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キムヨンイ宣教師(巡回宣教師、LOG4ミッション代表)