GNPNewsのブログ japan.gnpnews.org

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神様の国の復興と宣教完成のための新聞
‘福音祈祷新聞’のブログです。
福音祈祷新聞は、2010年‘神様の国の復興と宣教完成’を願って、
メディアで諸国を仕えるために建てられた巡回宣教団の
福音と祈祷メディアで製作する隔週新聞であります。

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世間の数多い人たちが心から神を拒否して束縛から脱しようと叫んだ中世ルネサンスと啓蒙主義はユートピアを建設するかのように傲慢に騒いでた。しかし人類は今ぎっしりと積み上げた危機の火だるまの上に座っているようだ。

 

歴史中ずっと人は世の中を改革しようと努力をしてきた。ところがどんな努力も成功できなかった。世の中を改革するとしたら人が変わらなければならない。制度の変化ではできない。良い法でもできない。いくら良い法でも悪用する人の手に入る瞬間お互いに刺して、殺す。法より上にいる人が変わらなければ改革は遼遠である。どんな制度も革命も人間自体を変えることはできなかった。社会主義、共産主義がユートピアを建たせるとぶち上げたが自らにどんなに悪を自行したのか?!

 

世間の改革は人の変化で

結局、世間を変えようとしたら人を変化させなければならない。人を変化させる道があるだろうか?!存在的にアダムの呪いを受けた罪人を変える唯一な道は生きておられる神の御言葉にある。他の道はない。

偉大な創造主である神の御言葉は完全である。そしたら、神の御言葉に対する私たちの態度はどうあるべきか?“金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます。(詩編19:11~12)金にまさるほど愛するべきである。

 

世の中はお金と所有に狂っている。‛成功’のアイコンであった スティーブ・ジョブズ。彼の生の最後は悲惨だった。人が皆羨ましがるほどの富と成功は死んでいく彼に何の役にも立たなかった。病んで横になっていた彼のベットの近くには愛した人たちと、彼たちの分かち合った思い出しか残っていなかった。

 

人の運命は神の御言葉に

栄光な神、全知全能で善い神が下さったのが御言葉であるなら私たちは当然、金より、蜜と蜂の巣の滴りより愛して取るべきである。神の御言葉はどんな所有よりも快楽よりも貴重なものである。私たちは希望する雄一なのは間違いなく金より貴重で、蜜より甘い神の御言葉をより知りたがって、所有したいのだ。

 

それから、主の僕が警告を受けるに聖書の御言葉にまさるのはない。御言葉は人生の一番安全なガイドになる。人生は地雷原である。不幸がどこで爆発するかわからない。こんな危ない人生を生きるのに私たちの運命をなににかけるべきだろうか?神の御言葉に従順すること以外安全な道があるだろうか?従順のこの道より完璧に保障された成功はない。“あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます。”<続く>[福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師(巡回宣教師、LOG ミッション代表)

誰もがうれしいお知らせ、福音を聞きたがる。このように福音を願う人たちのために多様な信仰の告白を集めた。カラシナ種宣教会が制作した伝道紙から紹介する。 <編集者>

 

お寺に行った時に心が安らぐあなたの気分のために仏教を選びましたね。‘感じ’。それにあなたの運命を任してもよろしいですか?‘感じ’それは信じても丈夫なものですか?

 

森の中にある小さい家、その家の前には大きい湖がありました。冬になったら人々は湖をぐるっと回って行くよりは、凍れている湖を横切ってその家に行こうとしました。ある日Aが湖の氷の上を歩きました。湖がかちかちに凍っている感じで、昨年の冬にも渡ったことがあるので自信満々でした。しかし、湖の中間は実際には薄氷でした。結局彼は溺れて死にました。

 

冬がより深くなったある日、Bが湖を渡っていました。ところでBは本当に疑い深くて氷の面を一歩一歩薄氷を踏むように渡っていました。最後まで彼はブルブル震えながら疑いながら渡りましたが、氷は実際に硬く凍っていましたので安全に渡ることができました。

 

人が死んだり生きたりすることは、あなたの感じや確信とは全く関係なく、その湖が硬く凍っているかどうかにかかっているのです。湖の状態が歩いてもよいかどうかです。そんな意味でお寺で感じたあなたの安らぐ感じに依存したら危ないです。

 

楽ではなくても、気まずくても、苦しくてもあなたを救う道であるならば行くべきで、楽で、好ましくても違うのなら行かないのです。

 

あなたを救われるただ一人はイエスキリストです。‘私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていません’と言われています。イエスはあなたが渡れる、そして、渡るべきの丈夫で一つだけの氷です。その氷の上を渡ってください。向こうから神がお待ちしております。

[福音祈祷新聞]

ブドウ園を培いながら主のブドウ木の例えを黙想しながら
 

 “わたしはまことのぶどうの 木、わたしの父は農夫である。。。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに實を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネの福音書15:1,5)

 

私は一時期フドウ園を培っていた。そのおかげで主のブドウ木の例えの意味が分かりやすかった。

果樹に花が咲いて実を結ぶ方式にはふつう二つがある。一つはすでに昨年伸びた枝にある花芽から花が咲いて実を結ぶ方式である。もう一つは葉芽から新しい枝が出てきて、その枝から花芽が生じてまた花が咲いて実を結ぶ方式である。

 

なし、リンゴ、桃が前の方式で、ブドウ木、柿木の場合が後の方式で実を結ぶ。また、柿木の場合は枝が短く育つので枝を切り落とさなくても実を結ぶのに障害にならないけど、ブドウの木は違う。

ぶどう木の枝はつるで伸びていくので最初の年は丈夫だが、次の年になったらその伸びた枝の目から新しい枝が続けて出てきたら絡み合わせて充実に実を結べられなくなる。

 

だから農夫は一つの枝から一番近くにある目だけを残して全部切り落として集めてから焚物にするか破砕いてしまう。即ち、沢山実を結ぶために枝に一つか二つの目だけを残してきれいに整理するのである。 “わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。”(ヨハネの福音書15:2)

 

主は私たちに豊かに実を結ばせるために私たちをその御言葉できれいにしてくださった。そして、もはやブドウ木であるイエスに繋がっているだけで主が実らせる豊かな実を結ぶことができる。

 

私が十字架で主とともに死んで主とともに生きたら、もはや私が主の内に、主が私の内に居られるのである。そしたらブドウ木に繋がっている枝のように実を結ぶしかないし、その実のために農夫である神は栄光をお受けになるのだろう。

 

主が下さる御言葉に従順するだけで十分である福音が実際になった生を決断してみる。

チョンへゴン長老|書き手は今農園を培いながら神の真理を悟る喜びの時間を過ごしている。

[GNPNEWS]

神の栄光、神の御言葉(1)
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世間を見て、この世の中に生きている人を見ていたらどこにも希望が見えない。世間は悪が意のようにうまく行って不意が憚って、騒がしくてめちゃくちゃである。人を見たら手で空を覆うように‘目に見えなきゃ神も居ない’といい、空に向かってつばを吐くような事も障りなくする。根本を否定して、真理をからかう。こんな事を躊躇しない人間の不正と腐敗、乱暴、嘘と淫乱、反人倫的犯罪、同性愛、教会の堕落など。今までの時間の中でこの中の何一つも避ける事ができなかった。このすべての世事は飽きるほど見て、聞いて、ため息をするしかない歴史的な実際であった。

しかし、世の中に居る自分を見たらより小さく、無力で、重たい荷物を抱えているように疲れている。巨大な挑戦の前に立って果てしない気持ちを消せられない。ひとりむしのように騒がしい世間に巻かれないで、気を失って人の家の火事見物をしているように呆然として、するべき事も忘れて立っていてはいけない。少なくても神の民らしく、聖徒らしく気を引き締めて私たちがするべきのことを見つけなければならないのだ。

じゃ、世間と自分に留まっている視線を回して、目を上げて空を見上げるべきである。“目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか”(詩篇121:1) 息が詰まるほどの危機と難しい状況に置かれた詩篇記者が事件に溺れずに、状況に押されずに、自分の魂を呼び起こしながら話す言葉である。彼が叫ぶ。“私の助けは来る、天地を造られた主のもとから”(詩篇121:2) この地で起きているすべての事が神の主権の下にあると叫ぶ信仰の宣言なのだ。

“目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ”(イザヤ書40:26)事件に巻き込まれていたら状況を分析する余裕と広い視野を持つことができない。だから‘目を上げ’と言われる。分別できずに、あきれるほどの絶望の前にいるご自分の民に向かって状況分析を要求せずに、むしろ‘目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ’と言われる。

“それらを 數えて引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の强さ、激しい勢いから逃れうるものはない。”(イザヤ40:26b)神の目に覆われた事件は一つもない。 “ヤコブよ、 なぜ 言うのか 。イスラエルよ、なぜ 斷言するのか。わたしの 道は主に隱されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。”(イザヤ40:27) いくらちいさい人の事情であっても生きておられる主は覚えられて、立ちいれられて、助けられる。

私たちは極めて制限的で部分的なことだけを知っている。だから正しく知るためには‘目を上げて’天の万像を創造された神を見上げる事から始まるべきのであるのだ。 <続く>
[福音祈祷新聞]  japan.gnpnews.org

キムヨンイ宣教師
(巡回宣教師。LOGミッション代表)

 

ダビデの王国が建つすべての過程は完璧に神の契約の成就である。資格のないダビデを呼んで王にさせた理由は、その事を成就させる方が神であって、また、そのお呼びに召された者として反応する資格がひたすら信仰だけであることに悟らせるためであった。神の時代を生きる私たちの招きもやはり完全に御恵みであるのだ。

 

資格も実力もない私たちを選ばれた民、王の系統を引く祭司、神の美しい徳を宣布する存在として呼ばれて懲らしめを受けない完全な神の子供にされることと約束された。これは、私たちの何にも成し遂げられない事であるのを確かに悟るべきである。

 

私たちは神に召された時からすでに100%不適格者だった。100%確実なのがあるとしたら私たちは確かに地獄の子であることだろう。神に完全に反逆罪人である私たちは神の充満を享受することは夢見る事すらできなかった。

 

私たちを愛されて、その血で私たちを罪から解放される事は完全に神の招きを根拠とする。(ヨハネの黙示録1:5~6)私たちがうけるにふさわしい呪いと審判と滅亡を息子の血の値を払って購った。一方的な御恵みで私たちを罪から解放されてくださった。

 

私たちの聖別も私に根拠があるのではない。主の完全な尊い血にある。私たちが御座の前に堂々と行けるのも私の弱い状態ではなく主の御働きのためであるのだ。私たちの功績になってくださったイエスの名前のために神は私たちを拒む事ができない。そんなわけで私たちの能力と関係なくイエスの名前で祈るのである。その名前で祈祷すればすでに受けてもらった事に信じられるのである。これが私たちが持っている確信であるのだ。(ヨハネの第一の手紙5:14~15)

 

だから私たちはすでに勝利した者である!幸せ者である!私たちの勝利がキリストの十字架と復活で保証されてあるからだ。状況が絶望であっても主を見ればよい。主がダビデを助けられたように、無能な私たちを助けられる神を見るべきである。主の聖なる国の為に主が私たちを助けられる約束の御言葉を見るべきである。(コリント人への第一の手紙1:24~29)

 

サウルの王国の変わりに建てられたダビデの王国は肉体によって主に従う者の水準では愚かに見えたかも知らない。しかし、だから、神の全能が明らかになった。

 

私たちが落胆する理由はなんだろう?私がどんな状況に置かれてもがっかりする必要はない。主は強くて、神の国は永遠である。その国に属された私たちはどんな事に対しても失望する必要がない。

 

御恵みの招きを受けた者たちよ!その国の復興と宣教完成の為に私たちを使われると言われた時、私の可能性、偉さ、愚かさなど何も見ないで、私たちを創造された主だけを見よう!十字架の福音に出会ってインマヌエルの祝福を受けた者の アイデンティティはひたすら‘イエスキリストの値’である。主が私の知恵と義、聖別、救いを完成された。この事実を信じれば必ず享受できる。 <続く> [福音祈祷新聞]

 

キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)