ちょっと前になるのですが、ある方とのメールのやりとりで、 五木寛之さんの「大河の一滴 」の中の一説が 蘇りました。
随分以前に読んだっきりだったのですが、イメージが 鮮やかに浮かんだのです~。
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私の心にひっかかった部分は、出家つまり親鸞という主人公と、その弟子-唯円という若いお弟子さんの話です。
唯円は親鸞の記録をまとめた『歎異抄 』 というたいへん有名な書物の編者といわれています。
この唯円と親鸞とが、どこかで外を眺めながら短い対話をしている場面があります。
この場面を読んで、ぼくの心に、映画のシーンのように、ひとつの光景が記憶のなかにうかびあがってきました。
唯円が外を眺めながら、ぽつんと親鸞にこんなふうに言います。
「お師匠さま、私はこのところ、なんだかさびしい気持ちがしてならないのです。
ときどきぼんやりいたします。
こうして道を歩いている人を眺めていても、なんとなく心がさびしくなってきて涙がこぼれたりする。
こんなことでいいのでしょうか」
まあ、原文とはちがいますが、つまりこういうふうな口調で問いかけます。
修行中の身がこんなことでいいのでしょうか、というふうな気持ちできくのです。
それに対して、たしか親鸞はこういうふうに答えるのです。
「それでいいのだよ」
友人に接するようなやさしい感じの対話です。
親鸞の人間味が非常によくそこには描かれているような気がします。
「それでいいのだよ。
唯円、それでいいのだよ。
さびしいときには、さびしがるがよい。
それしか仕方がないのだ」
というふうに親鸞が答えると、唯円が重ねて、親鸞にたずねます。
「それじゃ、お師匠さまのようなかたでも、さびしいなんていうことを、お感じになるときがおありなのですか?」
信心の定まったあなたのような立派な方でも、さびしいなどという気持ちになることがおありなんですか? とたずねるわけです。
親鸞はそれに対して、こんな意味のことを答えるのです。
言葉は正確ではありませんが、説明的に勝手な言葉をつけくわえていいますと、つまりこういう内容のことです。
「私もさびしいのだよ。
そして、私は一生さびしいのだろうと思っている。
だが唯円よ、おまえがいま感じているさびしさと、自分が背負っているさびしさとは、ちょっとちがう。
おまえのさびしさというものは時間がたつとふっと通りすぎていくような、ある意味では対象によって癒されるさびしさなのだが、自分がいま感じているさびしさというものは骨身にしみわたるような深い重いさびしさなのだ。
そして自分は一生このさびしさを背負って生きていくのだろうと思っている」
と、まあ、あらましこんなふうに、唯円に向って、弟子と師匠という感じでなく、若い友達に語りかけるような口調で、親鸞は語ります。
そして重ねてこんなふうに言うのです。
「おまえもいずれ、そういう本当のさびしさというものが理解できるようになってくる、それを感じるようなときがくるであろう。
唯円よ、そのときにはそのさびしさから逃げようとか、そのさびしさをごまかそうとかしてはならない。
自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、その自分の心に忠実にしたがえばよい。
なぜならば、本当のさびしさというものは、運命がおまえを育てようとしているからなのだよ」
言葉は正確ではありませんけれども、そういう意味のことを親鸞は諄々と唯円という若い弟子に語ってきかせるのです。
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ああ、いいな~。
親鸞、いいなあ~。
唯円、こんなお師匠さんを持っていていいなあ~。
と、 10数年振りに読み返して、またまた 目がうるうる

「それでいいのだよ」
なんて やさしい言葉なんでしょう~。
この言葉、バカボンのパパの 「これでいいのだ」 のセリフともちょっとつながるような気が~。
あ、ちなみに!!
バカボンってサンスクリットの「薄伽梵」(ばぎゃぼん、釈迦如来)から来ているのだそうです。
レレレのおじさんにいたっては、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいた チューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) という人が モデルなんだそうな・・・・。
なんか・・・・深い!!
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J'Encore ~ 再び 私に会う 「在る」へのいざない ☆
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マトリックス・トランスフォーメーション ~ 量子的変容ヒーリング

