私は「男女差」は生殖器の機能以外には本来存在しないという考えを持っている。

一見女性らしいと思われる性質、「美しい」も「優しい」も、男性らしいと評される「強い」も「荒々しい」も、どちらの生殖機能を持つ個体に生ずるかに確実性はない。遺伝子の解明が進んだ現在となっても未だに謎多き領域であり、人類が一定の規範を設けるには至っていない。

つまり、そういう個性の持ち主
というだけに過ぎない。

私の思考位置は「フェミニズム」でもなく「LGBTの解放」とも少し違う。あえて言えば「セクスレス」だろうか。

歴史が築いてきた男女差の文化を否定はしない。それ故に生まれ、極められたスタイルには憧れすら抱いている。

ただそれを持つ「べき」人は誰かとの問いに「可能性は全ての人にある」と答えたいだけだ。

余談だが古典的な美術表現に登場する「アンドロギュヌス(両性具有)」と称されるテーマ、乳房と男根を共に持つ“魅惑の欲張りボディ”は個人的な美意識の好みとしては逸れる。

しかし「男でもあり同時に女でもある」ことは私の提唱と袂を分かつものではない。人間性が好ましければ友人としても、何なら伴侶としても歓迎しよう。

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この思考は突然思い至ったものではない。今日したためたのは映画「彼らが本気で編むときは、」の残響である。

私のフェバリットムービーのひとつ「かもめ食堂」の監督の最新作であるため、公開初日に観に行ったのだ。
2月25日、その夜に私は角膜を傷めた。
目のドタバタですっかり忘れていたが、鑑賞後の興奮で書きかけていた草稿がアプリに残っていた。

映画はこんな堅苦しい内容ではない。もっと温かく優しく人の機微を過分なく描いている。単純に言えばかなりオススメだ。
もしご覧になれば、私という個性があの作品に触れた時、この文章が流れ出た必然性は何となく納得いただけると思う。

カタチなんて、
あとから合わせればいい

とは、この映画のキャッチコピーだ。
僭越ながら私が言いたいことも大差ない。

まずその人という個性があって、
それをどう呼ぶか、どう類するかは
後の問題だ。

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たまたま男女差のことを書いたが、
「40代 女性 夫あり 子供なし  都内在住 執筆業だが現在の依頼はなし」としかデータとしては記載しようのない私が「今の私」や「素顔の私」をどう規定するか、との問いがあるとしたら。
そこには意外にも無限の自由がある気がするのだ。性差はもちろんのこと、年齢や環境だけでは絶対的に要素が足りない。そう思えてならない。

でなければ、これほどに多様な人々が存在するはずがない。
かの映画を観た新宿の雑踏を今日再び歩いて、ふいに思った。
背格好や洋服が少しばかり似ている人はいても、


何てことだ。
やはり「私」は
ここにいる一人しかいない。

その閃きは、性も年齢も環境も超えた
「尊厳」の証明のように思えた。

そうだ。そんな私が「何者」なのかは、遠い未来の私が自分で決めればいい。今はただ、己の目と心が指し示す道を違えずに歩いて行くことだけが肝要だ。

何だか説教臭い末尾になってしまった。
ただふと、そんなことを思った日曜の昼下がりがあった。それだけの話だ。