桜は咲き、雨に濡れ、
そう遠くないうちに散るだろう。

3月中に仕込んでおいた仕事やチャレンジが、今、ゆっくりと動き始めている。

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これまでの4月の数日間、画策した通り静かに己を休められた。
さすがに歯痛は想定外だったが、それでも「明日の予定を確認、反芻して緊張感を保ちつつ眠る」そんな心身が必要ない夜を幾つも過ごした。

休暇は終了だ。
明日からはまた一歩一歩、己の決めたプロジェクトを小さく刻みながら過ごす日々が始まる。

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ただ、そのプロジェクトが無事終わったからといって特に身辺に変化はないだろう。

さもしい欲を言えば「これが終われば大きな名声を得られる」とか「確実に次の良い仕事に繋がる」等の確証があればと思う。

しかし同時に私は自身が、その種のプレッシャーにとても弱いことを……弱くなってしまったことを受け入れなくてはならない。

とにかく無事に1ステップごと済ませていくことに注心していけば、何に繋がらなくとも終わらせることはできる。
できるはずだ。

そう信じている。

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私はかつて「目の前にたまたま来た仕事でなく、数年先のヴィジョンを持って仕事を選び、それに注力すべきだ」との意思を持ち、
今あるものを選ばずに着実に成し遂げ続けるべし」と掲げた当時のリーダーと意見を違え、袂を別った。

だが今の私は「今、ここを着実に」という生き方を選んでいる。10年先はおろか、1年後の自分すら想い描くことができない。
想い描くことが私にとって重荷になると理解したためだ。

それを受け入れるのは辛かった。
リーダーの彼女の言質と「今、ここに注心する」の理念は別のこととわかってはいても、まるで彼女の正当性を認めるようで、その前に膝を屈するようで自尊心が揺れた。

今でも少し辛い。

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だがもう一つの私の特性「検証好き」が長年をかけてそれを捩じ伏せた。

「未来がこうあって欲しい」「こんな風に成功したい」と思えば思うほど、胸の中で何かが詰まる。何度やっても同じだ。
夢を語るのとも、決意表明とも、成功のイメージ云々とも違う。
具体的な未来を思うと息苦しい。

様々な角度や、内容を変えて検証してみた。だがとにかく「未来はどうなるかわからない」方が、私はずっと楽に息ができるようなのだ。
その理由はまた追い追い突き詰めていこうと思うが、実証結果は確立された。

もちろん生きていく以上は常にチョイスと決定を繰り返さざるを得ない。その指針としての大雑把な夢や方向性はある。

しかし数年後、チョイスの結果として夢が成らなかったとしても、生きてさえいれば自分を許そう。
そう考えた時に初めて本当に前を向けるような、目の前のことと戦えるような、そんな意欲が湧いた。

認めねばなるまい。
かつての自分を棄てることは今更叶わないし、卑下もしない。当時の私が思ったことの正当性は揺らいではいない。

だが今の私は
その旗の元では生きられない。
同時に旗と共に在れない寂しさも
素直に受け止めよう。

寂しい。悔しい。心が少し痛い。
だがそんな感情も含めて
歪に存在するのが
今の私だ。

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小さな公園の片隅。
建物や柱に紛れ、捻れて伸びた桜の樹も、生えた時には「真っ直ぐに天を」と願ったかもしれない。

その願いは叶わず、今は住宅街の隙間に沿うように伸びた枝がひっそりと花を咲かせている。

そして大した花見にも出なかった私の足を街角で止めさせる。他の季節にはここに樹があることすら思い至らなかった。

しかも、せっかく咲いたのに
またもや雨に濡れて。

だがそれで良いのかもしれない。

寂しさと痛みと捻れを我が物として伸び、いずれ咲いた花を雨に晒されても。

桜は桜には違いないのだ。