「あなたにとって○○とは何か」
古今東西、未来永劫、繰り返され続ける問いだろう。

そこに映画「1999年の夏休み」が入った時、制作した人々を除き、私は自分がこの世で一番答えに詰まる人間であることを自負している。

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あなたは天地開闢を行ったことがあるか。
私はある。「光あれ」と言祝ぎ、闇の中に土壌を拓いて「初めての地」へ人々を率いた経験を持っている。

何ということはない。ただ恐らくは映画公開から最速で同人誌を作った。それにより監督他の知己を賜わった。そうこうしているうちに「この世でこの作品への愛を語り合える人は誰も居ない」と思っていた多くの人々を18歳にして一挙に束ねることになった。それだけのことだ。

映画作品という人様の土地の上で何をほざいているのかと思うが、まあやってみるといい。集まったのは明日の食糧があれば幸せな民ではなかった。
民という表現を受け入れこそすれ、ひとたびヴェールを脱げばそれぞれが彼の作品を魂に刻み、懊悩も法悦も味わい尽くした「自分」という名の王国の主達、しかも作品のDVDはおろかビデオの出現すら、長く待つことになった第一世代だ。彼らの飢えと真摯さは、既に修業僧の様相を呈していた。

そして繰り返そう。思い出して欲しい。
彼らが真実、崇めている父神は
映画「1999年の夏休み」である。
その、ゾッとする重み。

本来は何の力もない自分が、彼らを「ファン」という一言のみで繋ぎ合わせるのだ。各王国の理念を尊重し、愛が深まること、安寧の地を得ることを勧めはすれど、決して作品に背を向けさせてはならない。
また、この王国連合の噂を聞きつけてやってきた者達には必ず門戸を開き、喜ばしい何かを提供して歓迎の意を明確に示さねばならない。

何しろ自分は本物の神々・映画制作の方々の恩寵を賜ってしまった最初の地の民だ。その誇りと草冠に見合う責務がある。
どこの暴走族かと思うが「ハンパは許されない」という思いが自身に生まれ、苛烈な言動規律を己に課した。

だから私はずっと、自分より上手に人々を見守ってくれる誰かが、一刻も早く現れることを祈り続けていた。
無論、活動自体をとても楽しんでもいたのだが、2つの事実が同時に存在することは珍しく無い。

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そして運命の輪は周り、有難くも集団を引き継いでも良いという人が順次現れた。私がその全員の背に天使の羽根を見たのは幻ではあるまい。
時代も巡り、無理に集団を作らずとも己で道を極める人材も現れてきた。

映画の初公開は1988年だが、通販サイト・アマゾンの記載を信じるならばVHS発売は奇しくも1999年、DVDに至っては2001年とされている。
(頼もしき仲間より追加情報:
主にレンタル用に販売されたVHS は90年代初頭には出ていたはず。一般のネットから可能な確認情報は以下の通り。
SONY品番:00ZS1002   JANコード:  1001075124010  定価: 15,984円/税込)

キータイムの1999年。私はこの映画のファンとしては随分と穏やかな日々を過ごした。
そのため詳しくは知らないのだが、後に見せてもらった再上映記念リーフレットは観音開きの1枚作りで立派なものだった。

懐かしの仲間が「薄いのに価格は高い」と私への慰め半分に言っていて笑ったが、実生活で出版業界にいた私には、あれがどれほど印刷物として贅沢に作られたものかがわかる。深津絵里さんのコメントまで寄せられていた。それが計り知れないくらいにファビュラスでマーベラスな(笑)事実ということ、ご理解いただけるだろうか。

私は感嘆の息をついた。そして小さく思った。そうか、ここまで来てくれたのか、と。よくぞここまで。

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それこそ田舎者が上京数日後、数えるほどしか乗っていない山手線と地下鉄を乗り継いで、人生で初めて足を運んだ東銀座。東京で1本目となる映画を観たあの日。

自分も映画と同じように大学の「寮」で生活し、同室の先輩の眠りを妨げないかと細心の注意を払って原稿を描いた数十日。映画公開のおよそ一ヶ月後に北区十条の印刷所で刷り上がった薄い本。

大倉山記念館を初めて訪れた日の衝撃は書くまでもあるまい。横浜のゲーテ座で中村由利子さんの生演奏を聴いた感激も言葉は不要だろう。

そして何故か(ここはもう端折る)映画館に公式パンフレットと並んで売ってもらえた幸せな薄い本。毎日のように寮母さんから手渡される、読んで下さった方々からの手紙。

そこから時期を問わず、仲間になってくれた全ての人々。さっきは「民」とか言ってごめんね。

もう何もかも懐かしい(by沖田艦長)。

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そう思ってまた十数年。
集団を守り続けてくれた「19-」の慈母たる人から連絡が来た。

30周年を記念して「1999年の夏休み」がデジタルリマスター版として甦る。
しかしパンフレットを作る目処が立たない。その件で金子監督が私に会いたがっている……と。

瞬時に同時並行で、懸案が私の脳のシナプスを駆け巡った。

・喜ばしい。
・しかし今、何故。
・1999年には唸るクオリティのリーフレットを作ったのに、今回はパンフレットが云々とは、はて面妖な。
・しかも18歳だった私が人生の半分を過ぎようとする今、音楽会一回のみでなく、全国で順次に公開するとは……あの……その……何たる無謀。
・諸々の状況、昨今の時勢から察するに、映画公開の成功も含めて、ソフト化は初公開時より更に困難を極めるであろう。

私にも確かに30年の時は過ぎていて、それが緑の草原に見える感性はとうに失われていた。社会人としての経験値も赤信号を告げている。

だがしかし、しかしである。
この私に、かつて天地開闢を敢行した私に、あの映画からの呼びかけに応えない、などという選択肢があろうか。

「断っても良いんだよ」と、必ず優しい金子監督は仰るだろう。だが80%以上は自尊心が、残りの20%は意地が(つまり理性は何処にも無い)絶対にそれを許さない。

例え現世界で最も神に近いかもしれぬ理研・計算科学研究機構のスーパーコンピュータ「京」が否の計算結果を出そうとも、私という個体の細胞がそれを更に否定する。

見渡す限り荒野ならば、まず一鍬、土に叩きつけてから物を言え。
一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。
某教徒でもない私の魂が、そう叫ぶ。

その麦は私の命あるうちに実を結ばぬやもしれぬ。それでもほんの一区画が耕され、それが(映画「1999年の夏休み」が)真実、後世に残るべき物ならば、必ずや続く“耕し手”が現れるだろう。
現れないならば、それが寿命だったということだ。

麦が全て失われたならともかく、まだ一粒ある。そして耕し手として私に選択が託された。
ならば逆説的ながら、死なない程度の力で立ち耕すしか、私に笑って死ねる人生は無い。

私にとって映画「1999年の夏休み」とはそういうものだ。

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最後に夢を語って終わろう。
100年後、いや50年後でも良い、そして何処の国でも良い。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読むような若い世代が、ふと町で目に留まった映画の看板に惹かれ、スクリーンを見るのだ。そして言う。
「サリンジャーも良いけど、この映画も良いな。ヘッセも読み直してみようかな」

それを私はメタリックな無縁仏の墓の下で微笑んで聴く。

fin