不安は、胸の中で暴れる心地がする。
だがその最初の脈打ちは、ときめきと何処か似ている。安定していたものが緩やかにさざめくイメージ。
それがある一定の温度より温かくなると「ときめき」、冷たい波になると「不安」と認識する気がする。
そのどちらともつかない「予兆」。
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私と似た世代ならば、薬師丸ひろ子の名はわかると思う。世代でなくとも彼女は常に第一線の女優だ。
彼女は私の心のアイドルのうちのひとりで、歌も映画も何度繰り返し鑑賞したかわからない。そんな彼女の代表曲のひとつに「メイン・テーマ」がある。
同名の主演映画の主題歌で、確か彼女が20歳になったことが全面に押し出されたプロモーションをかけていたと思う。
だから歌詞にも「20年も生きてきたのにね」と含まれているのだろう。
私は彼女より数歳年下なだけだが、20歳とその数歳下となれば差はとても大きく感じるものだ。
だから映画を見て「心から感動!」とならなくても、歌詞がピンと来なくても、そういうものだろうと思っていた。蛇足ながら作品的な良し悪しの話ではない。当時の私がどう感じたかという、それだけのことだ。
ただ曲の一節
「愛ってよくわからないけど
傷つく感じが素敵」
の部分だけは“そう遠くない未来に理解できるだろう”と考えたことを、今でも覚えている。
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私が真実それを理解できるような経験を後にしたかはともかく、今でも脈絡なくあの透きとおった声が脳裡をよぎることがある。
そう、今のような「予兆」を感じる時だ。
予兆が予兆で終わり、大きな情動を起こすことなく過ぎ去る場合もある。だが熱狂を伴うときめきに変ずることもあれば、息が止まりそうな不安に変わることもある。
昔からずっとそうだったのだろうが、明確な感情になって初めて存在に気づくことが殆どだったし、それで不便はなかった。
だがやはり鬱を患うと、それが「不安」に変じてからでは対処に苦慮することが多く、必然的に「予兆」に敏感になった。
この、まだ波動とも呼べない薄いざわめきをどう受け止めるかで、後日の苦労に天地の差が出る。慎重に扱わねばならない。
さらに面倒なのは不安の種類によっては、処方を間違うと煽る結果になりかねないことだ。
正直、今でも絶対的な対処の方法を私は知らない。
多くの経験データや、世の書籍は記憶にあるものの、処方と言い切れるほどの道筋をまだ見つけられていない。
それは恋愛がどのように似て見えても各個人で千変万化する様子に似ている。やはり不安もその時や状況、細かく言えば気温差まで含めて違う顔をみせるからだ。
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あの歌詞、あのフレーズを思い出すのは、傷つく感覚も生きている証拠であり、それを「素敵」と言い切れる美しいタフさを、身の裡に宿らせようとしているのからなのかもしれない。
かもしれない、としか言えないのは意識的にやっているわけではないからだ。
今、自分を取り巻く何処にもあの女優や映画や歌を想起させるものはないのに、ふと視線を動かした先から、頬にかかった髪の隙間から、あの曲は蜃気楼のように立ち昇ってくる。
愛ってよくわからないけど
傷つく感じが素敵
それをただぼんやりと聴いていた、けれどこの意味はいずれ分かるだろうと直感的に思ったあの日の私。
遠く遠く、もはや細胞は全て入れ替わっただろうが、私という個は受け継がれている。
その記憶だけで、今の私をどうにかすることはできない。出来るくらいならそもそもこんな状態の40代を迎えてはいない。
けれど私はそこに幽かな光を見る。
この「予兆」は何に変化するのかわからない。
ただもし私を傷つけるものに変わったとしても、それもまた「素敵」だと、記憶の向こうの彼女は微笑う。
その顔は、おこがましいながらも、
薬師丸ひろ子なのか若き私なのか
判別がつかない。