昨日書いた「待機」のどこが重要だったのか?
読み返してみたら、今の私にはわかるけれど、履歴を見る後の世の私がいざその認識を思い出そうとして「は!そうか!」と膝が打てる気が全くしない文章だった。
よほど舞い上がっていたのだろう。
なので、何か危機的状況が迫って心を立て直したいと足搔く、未来の私に説明をし直したいと思う。
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またもや引用で申し訳ないが、例え数年後の私でも「頭文字D」というコミックは覚えているだろう。
公道でカーレースを展開する若者たちの熱い物語。思い出してほしいのは、主人公の藤原拓海ではなく、その良き先輩で私が大好きなキャラの高橋涼介でもなく、涼介の弟・啓介である。
ヒルクライムを得意とする彼は、兄の涼介からある課題を与えられる。
アクセルの踏み込みの感覚を5段階から10段階に細分化しろという指令だ。
普通の人が意識的にやっているのが3段階とすると、現状でも啓介は非常に車のコントロールができている(からこそ速い)という設定である。そのさらに上を目指せという課題になる。
10段階を確実に踏み分けられるようになると、それだけ状況の細かさに密に対応出来るようになる。つまりよりロスが少ない走りができる。
どうだろう?
未来の私よ、思い出しただろうか?
私の「オフ」は0地点だった。それが「オン」に入ると10。「スタンバイ」は5だったのではないか?
昔の私が1の段階を踏む時、2の段階を踏む時もあっただろう。だがそれを「オフとほぼ同じ」と軽んじていなかったか?
仕事の範疇に入らないとプロ意識を発している気になって、仕事の一端をしている自分を認めていなかったのではないか?
だからこそ本当のゼロ地点に戻る、つまり「誠実に休む」ということをしていなかったのではないか?
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私が発見した「待機任務」の驚きは、1の段階も2の段階も「仕事」ときちんと認識する誠実さだと思う。
確かに私がいた業界は電車の中吊り広告でさえアイディアの元にするような「公私一体」こそが、生き残るカギではあった。
そして私はそれをすることが苦ではなかった。書くこと、考えることは幼年期から遊びのひとつだった。しかも今思えばロングスリーパーの特質だったのだろうか、眠り浅く見る夢の中でさえ私は物語やアイディアを考え、駆使し、それを起きても覚えてノートに書き留めたりしたものだ。
だが私よ。
それが寝ても覚めても不可分な私自身だとしても、もはやそれを仕事とした以上、完全にオフにする資質も育てるべきだった。
何の仕事に役立つかわからないが、面白そうと感じて心や紙にメモする自分をもっと褒めてあげてもよかった。
それはゼロではなく1〜2の段階をずっと続けている状況なのだから。
だから私は、周囲の皆が心を尽くして「削られていくなおじさん」を気づかせてくれた後も、本当の意味で休むこと、自分自身をリセットする方法がわからなかった。
仕方ないと言えば言える。それ以外の生き方を知らなかったし考えたこともなかった。
だが同じほどの勢いで自惚れていたともいえる。自分がクリエイティブと公私不可分な資質を持つことを(それくらいしか取り柄がなかったとはいえ)誇りの頼みにしていた。
それほどに私の器は小さかったのだ。
もっと自由に、もっと賢く、己を使う方法を知っている人はたくさんいた。
その全員がとはいえないが、多くの人はゼロに立ち戻ること、1や2の段階を踏む自分を繊細に捉えて褒めてあげる感覚を知っていたのではないか。
だからこそ彼らは私が思いもつかないようなスマートでエレガントな手法、アイディアを使えた。
私はそれを才能の違いと感嘆し、羨んだ。しかし妬んではいけないと知ってはいた。
その結果、朴訥に己を追い詰め続けた。
実際、才能ではあるのだろう。私には見えない己の活かし方が彼らには見えていたのだから。
そしてやはり何処かで妬んでいたのだと思う。彼らの動き、やり方、アイディアの見つけ方を、私は全身全霊で研究しようとまではしなかった。わずかに目を逸らし続けていたのだ。絶対に知りたいと、同じ人間なのだから得られるヒントはあると、己のプライドを二の次にして参考にしていれば、気づくタイミングもあったはずだし、それを自分で試そうと行動できた可能性は高い。
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当時の私は、
哀れでもあるし愛おしくもある。
ただ、ひとことだけ擁護しておけば、大体才能のある人が語る自分自身のことは、大抵の内容が凡人には理解できない。
英語を堪能に使える人が、翻訳の勉強もせずに日本語で物事の真髄を伝えようとするのと似ている。
当時の私が真に知りたいと努力して、どこまで「待機」の大切さや意味を知れたかはあやしいものである。
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それでも、私よ。
2016年12月と大変遅くはあるが、私は気づけた。
真実怠けている時もあるだろうが、それを責める前に1の段階、2の段階で働いている自分を褒めてやろう。
例えばこのブログを書いていることさえ。
全く収入に繋がりはしないが、自分をゼロに休ませてはいない。出来る限り真摯に己の感覚、思考を言語化しようと努力している。これは立派な「仕事への待機」だ。
30分早く着いて完璧な「待つスタンス」を作ることも、私がやり遂げた1か2か3の力が入った仕事だ。
そんな自分を怠けているとか、暇を上手に使えていないとか、卑下するのはよそう。
今日も私はよく生きた。
同時によく生かされたともいえる。私の腹を満たした食料、私を寝かせてくれたベッド、雨風から守ってくれた屋根。
私を会うべき人の元へ運んでくれた電車&バス、打ち合わせの間に停電もせず、心地よい空調を保ってくれた建物。
そして今日の私と関わってくれた人、歩いている時に上手にすれ違ってぶつからずにいてくれた大勢の世の人。
なるほど。
私はよく生き、よく生かされている。
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未来の私へ。
例え外からどう見えようとも、1や2の力で「待機」する自分に意味があることを思い出してほしい。
そして1でも2でもない、本当のゼロの解放を、たまには私に与えてやってくれ。
君はきっともうそれが出来る人になっているはずだし、それこそが鬱という生涯の悪友と付き合っていく重要なカギだと理解できているはずだ。
健闘を祈る。