と言われていますが、これは仕方なしなところはありますね。
武田信玄の息子達は
義信
信親
信之
勝頼
盛信
信貞
信清
の六人がいましたが
勝頼「だけ」武田家の通字「信」の字が入っていない
でしょ❓
武田勝頼は武田勝頼の前は諏訪勝頼と呼ばれていた
んですね。
武田家の一員として最初は扱われていなかった
というワケです。
当然ながら
跡取りとは最初は全く考えられていなかった
んですよ。
義信は父親の信玄に逆らったので切腹させられた
信親は盲目だったので跡取り候補になれなかった
信之は子供の時に死んでしまった
から
勝頼は「消去法」で跡取りになれたに過ぎなかった
んですね。
武田勝頼、諏訪勝頼は最初は武田家の一員ではなくて武田家の家来扱いだった
んです。
これは重臣達から見れば
最初、勝頼は若君ではなくて「後輩」だった
というワケですよ。
そんな後輩が「棚からぼた餅」で主君になってしまった
当然ながら重臣達は勝頼を軽視しますし、勝頼は勝頼でそれに反発します。
信玄亡きあとの武田家は内部崩壊を起こしつつあった
んですね。
そこを織田信長に突かれて、長篠の戦いで武田軍団は惨敗してしまった
と。
どんなに強い軍団でも内部崩壊を起こせば呆気なく滅ぶ
こうして武田家は滅亡しましたが、これも豊臣家と全く同じなんだよな
(;・ω・)y-~
関ヶ原の戦いで「豊臣秀吉が手塩にかけて育てた」加藤清正や福島正則は、同じく秀吉が育てた石田三成が大嫌いだったので徳川家康に味方するというトンでもないことをやらかしました、これで豊臣家は滅亡したんですね。
武田信玄と豊臣秀吉が
一致団結せなアカン時に、お前らなにしとんじゃ❗❓
と、あの世で泣いているのであります
( ノД`)y-~