5月も終わりにさしかかり、多くの人が選考を順調に進めている。しかし、自分はというと、書類はそれなりに通るのだが、一次面接でことごとく落第してしまう。
面接では一般的に、コミュニケーション能力や人柄をみられる、とされている。では、落ちたら、コミュニケーション能力はないのか、それとも、人間として失格なのだろうか。
よく、選考にことごとく落ちている人が、「自分は人間的に欠陥があるのだ」と落胆してしまうことがある。
しかし、考えてみたい。果たして、企業活動に人間性はどこまで関係あるのだろうか。営業だと、商品自分を含めて売り込むという意味で、人格も優れてなければならない。しかし、ここで求められる人格は、あくまで、商品を良く見せるための道具にしか過ぎない。そこには打算や、したたかさが存在する場合もあり、人間的に、優れた人格は、必ずしもビジネスで求められる人格や性格とは言えない。商品を買ってもらうには、相手が気にいるような、慇懃な話し方、気を利かせた対応、そういうものが求められる。商品を売り込むには必要な対応であるが、人間として付き合うとなったら、それは他人行儀な感じがする。
友達同士でそれをやったら、「こいつ何媚びてるんだ」という印象を受けるだろう。ビジネスに求められる人格は必ずしも、人間的に「良い」人格とは限らない。
なので、面接でいくら落ちたとしても、ビジネス的なところでの、我々の価値というものは否定されているが、人間性だとか、人格だとか、そういう根本的なところを見極める力は面接官にはない。あったとしても、そこまで見極める必要はない。
だからこそ、電車の中でマナーの悪いサラリーマンもいるし、ひどい時には痴漢をするサラリーマンもいる。ビジネスではない場所では、面接をくぐり抜けた「優秀な」人々も案外、人間として疑問を持つような行動を取る人がいる。それが就職活動で求められる、価値と、人間的な価値の良し悪しとは別の次元なのだということを裏付けてるのではないか。
ただ、面接で落ち続け、就職に失敗してしまったものは、いわゆる、社会不適合者であると言われても文句は言えない。企業は社会で活動するから、社会に適合できる者でないと企業はおそらく、雇わないからだ。しかし、社会不適合者だからといって、人間的な価値があるかないかという話をするのは、別の問題であると思う。