今日、日本では多様な社会、ダイバーシティある社会というふうに、とにかく多様な文化を受け入れる社会であるべきだとされている。実際、街を歩いていると、多くの外国人がいるし、会社説明会に行っても「私たちは多様な人材を求めています」という趣旨の発言がよくなされるように感じる。しかし、そんな多様な社会の内部には矛盾するところもあるという。
上のリンクのブログでは、今の就活生や働く人が誰も彼も外見は黒髪できっちりしたスーツ、人間性はきびきびして要領のいいような人しかいないとしている。そして、今では社会に通用するために、むしろ、そういった特徴がなければならないので、そういった意味では昔よりも均一化していて息苦しいと結んでいる。
しかしながら、文化や人間性が多様化しているのは、働いてサービスを提供する側だけではなく、サービスを享受する方にも言えることである。人々が多様化する中で、サービスを提供する側も多様な需要に対応しなければならない。なので、臨機応変的にその場その場で柔軟に手を変え、サービスを受ける側が必要なタイミングを逃さず提供しなければならない。「きびきびして、要領のいい人間しか社会に通用しない」というものは、むしろ社会が多様化してしまったが故に起こってしまったのではないかと思う。
では、外見についてはどうか。まず、前提として、どのような社会においても、常識や規範というものはある。最低限の共通認識がなければ、社会は無秩序なものとなり、成り立たなくなってしまうと思う。
多様化していく社会では文化や人間性が様々なものが許容されるが、それ故に、完全になにもかもが許されるとなると、個々人の向く方向は全くバラバラになり無秩序な社会となってしまうだろう。だからこそ、多様化していく社会では、最低限の常識や規範を守るということを徹底しなければならないと考える。
よく、自由と無法は異なると言われたところだが、多様化と無秩序は異なるものであり、混同しやすいところである。
かといって、形式だけにとらわれすぎるのも多様化を妨げ息苦しい社会になる。バランスをとることは難しいのだと思う。