❗・・・・・・過去記事つづきです。
こんなふうに、母は弟が心配で・・・・のめりこんでいったのではないかと思う。
母は終日仕事を終え、夜に帰ってきてばたばたと晩御飯を作り、その後わたしたちと向き合ってくれた。
・・・・余談だけど、わたしが中学2年までは母方の祖母がうちにいて、煮物を1つ作ってくれるんだけど、これがいつも一緒で「大根とこんにゃくと里芋の煮物」だった。
昔の人は(明治生まれ)肉とかあまり入れないから、子供にはあまり美味しくなかった。
・・・っていうか毎日同じなんて美味しいものでもいやになるんだけど・・・。そういえば祖母は自分でも「アホの一つ覚え。」とか言ってた。わかってたんならたまに変えてくれりゃよかったのに。
・・・・だから母が作るフライだとかオムレツだとかそのもう一品が食べたくて、弟と2人して母の帰りを楽しみにしていた。
弟の話に戻る。
母は、弟が小学校4年生くらいまで一緒にお風呂に入り、髪などを洗ってやっていたらしい。顔にお湯がかからないよう、アタマあおむけに自分のひざに乗せて。
そんなわたしが高校生の頃、実父はどうしていたのか・・・・そのころの記憶をたどってみると・・・ああ、会社員だった。
超積極的ADHDの実父は仕事が大好きでいつもエネルギッシュ。
でも、遊ぶことももっと大好きだったから、ほとんど居酒屋で飲んだくれて御前様だったような。
その時はもうすでに、早く帰ってきてもアル中気味で怒鳴り散らす父が嫌いだった。・・・わたしも弟もね。
そうして父のいない間、母はそんなふうに弟をとても心配してあれこれと世話を焼いていた感じだったんじゃないかな。。
でも・・・・母はわたしの話もちゃんと聞いてくれたし弟もわたしには従順だったから、特に不満はなかったと思う。
その後、母の弟への憐憫の情がさく裂したのは、弟が大学に行きたいと言った時だった。
・・・・母自身は母子家庭で育ち、成績がよくともお金がなく高校に行けなかった自分の境遇をとても恨んでいたから、子供をちゃんと教育するということには、普通の人以上の執念があったんじゃないかな。
いうなら教育ママゴンの部類に属したと思う。
弟が高校入試の時、姉と同じ高校を受けたが思いかなわず、私立高校に行くと決まった時、母のほうがはた目からもわかるほど落ち込んでいた。
恥ずかしくて近所の人にも顔向けできないって言ってた。それはひどい。弟に失礼だろうと思ったんだけど・・・。
・・・・そんな弟が高3の時に大学に行きたいと言った。国公立はムリで私立。福祉の大学だった。
母は働けど実父が給料をあまり家に入れてくれなかったから、とても大学なんぞムリで、わたしなどはなっからあきらめていたから、言い出した弟に驚いた。
結局弟は新聞少年になって学資免除で通うことになったけれど、母としては、お金がないためにわが子をこんなかわいそうな目に合わせるという辛さに滂沱の涙・・・・よよよよよ。「親として情けない」としょっちゅう泣いていた。
・・・・新聞少年、上等じゃないか。自分で決めたんだし元気でいけよ・・・・なんて思うわたしは、つくづく母とは違う人間だと思ったっけ。当時はまだ母親になってなかったけど、今だってそれに近いような気がする・・・・。これは「時代性」というのもあるのかな
つづきます