仏事法事並びに、報恩講への出席。得度した叔母の読経や祖母を訪ね。

自らのルーツでもある、ふらり関西の旅。


前回の関西は、Bと一緒だった。あの時のことを、ふと思い出しながら。


降り立った京都駅。

趣は変わっても、懐かしい駅。

毎年、幾度となく訪れ、祖母が出迎え、見送ってくれた駅。

母が、その年齢に近付きつつあることを感慨深く思いながら、踏みしめる。

そう言えば、ここは友人のお父様の設計だったんだな。

以前の迷路のような駅と比べると、なんとも乗り換えもしやすく、分かりやすくなったといつも思う。



お昼時の京都。日差しは柔らかく、思いの外。あたたかかった。

祖母の入院先を訪れるために、あまり時間が無い。
大好きなSephoraに相談。伊勢丹の和久傅にてランチ。

1時間しかないため、カウンターで急いでいる旨を伝え、最も皿数の少ないコースを。


蕪と鮭のはさみもの。おろしがけ。
京芋と京人参、丹波豆餅のお雑煮。

鯛茶漬け

苺とジュレ


いずれも、優しい味。京都らしい味を堪能した。

特にお雑煮が美味だった。揚げたお餅がパリパリと香ばしい食感。


慌しく頂き、早々に店を後にする。



湖西線に乗り、45分。

祖母のいる湖畔の小さな街へと向かう。


あたたかい京都市内のお天気とは打って変って

時雨れて今にも雪が降りそうな空模様。


路肩には根雪が残っていた。

さらに、駅からバスで30分。

バス亭には、迎えに来てくれた母の姉、叔母の姿があった。



娘である母達が行っても、時に混同することがあるとか。

母にも、叔母にも。きっともう、祖母は私のことが分からないだろうと言われていた。


ホームは、広く明るく新しかった。ちょっとだけ、ほっとした。

そっと個室のドアを開け、ベッドへ近付く。祖母のもとへ。


一瞬、間があったが。


祖母は私のことがすぐにわかった。

「顔がまるなったから、わからんかったわ」そう言って、笑った。

思いがけない喜びをもらった。


小さくなった祖母の姿は痛々しいものがあったが、それでも顔は艶やかで白く。

顔だけを見ていると、まだまだ今にも歩き出しそうな生命力を感じた。


暫く談笑し、周囲は夕方にの闇がたちこめる。そろそろ帰る時刻。

祖母は私の手をもう一度握りなおし、また会えるよねと言い、涙を流してくれた。


寒かったけれど、本当に行ってよかった。祖母に会えて、よかった。

姉が帰国したら、今度は一緒に来るねと約束し、別れる。



叔母と談笑しつつ、京都までともに道行き。京都駅での別れ際、

「辛かったね」と。優しく声を掛けられた。そして、

「あなたもだけれど、親の辛さはいかばかりか。それが親と言うものだけれど、今度は安心させてあげてね」

「幸せに、なりなさい」

どこまで、何を知っているのかは分からないが。そう言って、叔母はタクシーに乗っていった。



私は、sephoraとの待ち合わせ。河原町の高島屋へ向かう。

祖母とおもちゃを買いに来るのは、きまってここだった。想い出の、大好きな場所。

京都の買い物事情、今では伊勢丹が主流のようであるが、私にとって高島屋は特別。

そんな懐かしさを噛み締めながら、バスは一路、四条河原町へ。


18時。約束の時。美しく優しく、そして凛々しいSephoraは、私をすぐに見つけてくれた。

彼女の案内で、木屋町のお料理屋さんで美味しいお食事を頂く。

とは言っても。

実は話すのに夢中で、今となってはおつくり以外、何を頂いたか思い出せない始末。


散々話、飲んで食べて。楽しい時間はあっという間に過ぎてゆく。

美味しい胡麻油のおみやを頂き、三条京阪まで歩く。

叔母が待っている私は、もう一軒飲みたい気持ちを押さえ、一路叔母のお寺へと向かう。


しかし、私はここで電車を間違え(南北線と埼玉高速鉄道のように、二股になっているのである)

見知らぬ六地蔵と言う土地に着いてしまった。


そこから引き返し、お寺に着いたのは23時。身も縮む寒さの中、今度は母の妹、叔母が駅で待っていてくれた。

ありがとう。


そして、叔母と叔父と3人で話しつつ、おでんをつまむ。


深夜3時。お風呂を頂き、就寝。


急な来訪にも、あたたかく迎え入れてくれた叔母夫妻に感謝し、ベッドに入る。



朝、叔父は既におつとめに出いた。


広い本堂は深閑とし、深々と冷える。

その冴え冴えとした空気の中。

法衣に着替えた叔母が、私のひとりのために

香を焚きしめ、火を点し、読経をしてくれた。


様々なことに想いを馳せるも、頭を一度真っ白にし、

ただひたすらにお経を追った。

叔母の声。優しくあたたかい、お経だった。


ありがとう。


その後お茶室にてお茶を頂きながら。叔母が一枚の紙を手渡してくれた。

叔父からの伝言。お説教の紙だった。


「よいかなよいかな。」で始まる、懺悔(ざんぎ)の説話。

父である大王を殺し、母である后をツ幽閉した王が、正体不明の病に悩む。

いかなる名医をもってしても、その病が癒えることがなかった。

ある時、一人の老婆が王に話した話ということだった。


どんな名医をもってしても、良薬をもってしても

その病は治ることが無い。

自らの行いを悔い改め、親兄弟、先祖に感謝し敬意を持って

手を合わせることが必要だと。


懺悔の心を持つ者を人とし、それがなき者は畜生であると。


父の家は日蓮宗だが、母の実家は浄土真宗のお寺。叔母もお寺に嫁いでいる。


私は正直、真宗に関しほぼ情報を持っていなかったが、叔父が簡単に説明をしてくれた。

禅宗等の苦行にて心身を鍛練する仏教と異なり、真宗は自然体であるそうだ。

真宗は、性悪説。人は生まれながらにし、みな罪深いものである。殺生をし、木々を切り。

ゆえに、「悪いことをしていない」と思っても、それは違うのだそう。

ただ、悪いことをした、と言う罪の意識、後悔し手を合わせること=懺悔で、人は赦され救われるのだと。

これは面白いもので、キリスト教の教えと共通項があるように思う。


母の育った、礎となる教え。いつかもう少し深く学んでみようと思った。



私は、その説話を何度も読み返し。叔父に私は問うてみた。

仏さんに赦されても、人と人が赦すことができるのでしょうか。

自分を、赦すことができるのでしょうか。

もちろん、人が人を裁く立場ではないとは知りつつも、赦せないことが苦しいと。


すると、叔父は、静かに答えた。


この話には、続きがある。その話を聞きたい?


私は静かに頷くと、叔父は話を続けた。


何一つ不自由なく、苦労も無く。満たされた后としての生活から一転凋落。

息子に夫を殺され、自らも幽閉された后である母は。運命を、息子を、恨み嘆き悲しんだ。


そして苦しみ、何度も御仏に手を合わせ祈ったそうだ。


すると。


現れたお釈迦様が、お后に、不思議な力で極楽浄土を見せたそうだ。


その後お后は、不幸な出来事、息子によって

今まですることのできなかった懺悔ができ

さらには、見ることのできない極楽浄土まで目にすることができたと

息子に感謝し、手を合わせて頭を下げたということだった。



私には、まだその境地に辿りつくことはできないけれど

叔父が、この説話を選んでくれた意味が、少しだけわかったように思う。


ありがとう。



その後、叔母と本山本願寺へ向かい、親鸞聖人の750回忌である、報恩講 に列席し

ここでもお経をあげていただき、鎮魂することができた。



まだまだ、何も始まっていない。何も、終わっていないけれど。

ひとつ、自らの手で道標を立て、区切りをつけた。

ようやく、いつかそのうち、新しい扉を開けられるような気がした。


失ったものは、はかりしれず。あまりに大きく、処し難い虚無感を抱え。

傷を癒してくれるのは、時の経過だけなのかもしれない。

時計の針は、戻せない。リセットは、できない。でも、リスタートはいつでもできる。

風化することがあっても。痛みや苦しみ、辛さを忘れることはできない。

そして、彼のことも。私にとってもはや、二度と忘れ得ない相手となり、体験となってしまった。

だから、その辛さも、苦しみも。はらはらと舞い落ちる粉雪のように、積み重ねていくしかないのだと思う。


donnaさんから頂いたメールにも書かれていた言葉。

リセットが容易になった昨今。リセットした事実すら、無かったことにしてしまう人が多いのではないかと。

私は、リセットはしないし、できない。でも全てを胸に刻み、少しだけ明日を見られるようになった。

いつも、ありがとうございます。



関西の旅から戻ったら、間髪入れず、渡米の予定。