あまりに、暗すぎる。このところの、わたくし。
こんなに、メール内容やディテールまで開示して。何になると言うのだろう?
自問自答。
2人だけの、秘めごと。閉鎖された、隔たりのある世界のことを、なぜ書くのだろうか。
もちろんそれは、忘れないため。
"自分の痛みや、過ち。迷い。その他心の機微を忘れないように"と、始めたBlog。
でも、なんだかそれがストレスのはけ口になり、もやもやの捌け口となっていた気がする。
でもなんだか、プライベートの事をペラペラと話す、品のない女のような気がしてきた。
悶々としても、仕方ない。
もしかすると、近日記事を削除するかもしれません。
その際には、コメントは全て大切に保管させていただきます。いろいろお言葉をかけてくださった皆様、どうぞご容赦くださいませ。
そのあたりもぼんやりと考えつつ。
まずは掃除。
エアコンを切り、汗をかきながら片付ける。汗と共に、不純物は出てゆく。
久々に、大学の友人Sちゃんと、可愛い2人のベイビーたちと遊ぶ。
海から上がったご主人と、ビーチの風に吹かれつつビール。
その後、2ヶ月弱のNewBornベイビーのいる、従兄弟の家へ。
赤ちゃんって、大好き。
誰をもhappyにするそのまなざし。存在。
ちいさくて、あったかくて、やわらかい。
そのはかなさが、ますますいとおしく。
いつまでも、いつまでも。深夜まで、まだ黄疸の残るその新生児と遊んだ。
すこおしだけ、幸せな気持ちで満たされた。ありがとう、ベビちゃん。
海と、自然と、ベビちゃんと触れ、汗をかく。
ちょっとだけ、気が晴れたように思う。みんな、ありがとう。
実は、元来私は赤ちゃんが嫌いだった。子供が嫌いだった。
女の子に至っては、勝負を挑んでくる。そしてすぐに泣く。
そう、思っていたのに。
13歳の時、弟が生まれた。私は、複雑な年齢。
正直、学校行事に妊婦・子連れで訪れる母を
少し恥ずかしいと思ったり、疎ましく思ったこともある。
でも、徐々にその気持ちは変化した。
なぜなら、極めて単純であるが。
<1>弟はあまりにも、私に似ていた。血縁であることに、疑いがないというほど。
我が家は、数年前までパネルの家族写真を毎年撮っていた。リビングに飾られた古いものを、幼い弟が見ていた。
当然、数年前以前の写真に、彼の姿はない。
お姉ちゃまが、意地悪く彼に尋ねる。「ねえねえ、君は、どこにいるのかな?」
弟は、「うーーーーん、うぅーーーーーーーーん。と悩んだ結果。これ。と、恥ずかしそうに私を指差した。」
お姉ちゃまが、「どうして、スカートはいてるの?」と問うたところ。
弟は、「忘れちゃった。」と言って、はにかんで走り去った。
そのくらい、似ているのだ。
自己愛の強い私は、当然ながら弟が可愛くて仕方なくなった。
そして、<2>これも当然のことだが。
ママ大好きな幼児。他人が抱いてもあやしても泣き止まない時、母と同じ波長と声を持つ我々姉妹は、代理母だ。
誰よりも、懐く。甘えてくる。私を求める。
するとまた、これも可愛くて仕方がなくなるのだ。
さらに<3>。付加的な要素。弟に気を取られ、以前より両親の干渉が減ったため、Outgoinに変化した私。
楽しくて楽しくて、くだらないことを考える余地はなくなっていた。
人って、そんな風に環境要因で変わっていかれるもの。
相手によって、変わっていかれるもの。
何かを期待するわけではないけれど。
赤の他人を大切に想い、愛情を注ぎ、包み込みたいと想った自分に、成長の誉め言葉を。
そんな思いをさせてくれた彼に、ありがとう。の感謝を。
ちょっぴりだけ、素直に言えるような気がした。
そう。ちょっとだけ、分かった気がする。
「愛情を注ぎ続けている」「受け容れ、許し、愛しつづける」自分に、恥ずかしながら酔っていたのかも知れない。
でも、そうじゃない。
そう思わせてくれる、そんな行動をさせてくれる人と出遭えたことに。そうあってくれるB男さんに、
「ありがとう」なんじゃないか、と。
愛され、わがままを許容され、包まれる方が、 女性として満たされ、穏やかで、幸せなのかもしれない。
パートナーは欲しい。子供も、ほしい。
でも、私は男性に頼って生きていくのは、好みではない。
誰かの奥さん、お母さんと呼ばれても。私は私一個人として生きていきたい。自分の仕事や世界は、失いたくないと考えている。
自我が強く、ひとところに閉じこもっていられない性質なのと、自分が大好き。自己愛が強いため、
愛されて自分がどんどん傲慢、驕慢になるのは、なんとも居心地が悪いのだ。
(愛されてもそうならなければ、いいんですが・・・汗)
だから、愛を注ぐこと、自らの内なる愛情を実感し、噛み締められる方が、性に合っているのかもしれない。
そう思える相手に出会えたから。愛することができたことって、「ありがとう!」なんじゃないかな。
頑張って、無理して与えて。「欲しがりません、勝つまでは」 と、
喉から手が出るほど欲しい見返りを求めない我慢とは、ちょっと違う。
もしかすると、単純な自己満足、自己愛である懸念はあるが、
「ああ。与える愛って、そういうことだったんだ。」
ちょっとだけ、分かった気がした。
失ってみてから気づく、たいせつなこと。時、既に遅し。だろうか。