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とくにジャンルは設定しません。関心のあることを何でも書きます。

久しぶりに書きます。

某所から「遺書」(森喜朗)をいただいたので、感想を書きます。

東京五輪を成功させたいとの思いで書いたものであろうが、しかしながら、その思いは、ほとんど実現していない。

なぜなら、組織委員長はその任にないということを等々と述べていることに起因している。例えその任になくても、思いがある、成功させたいとするのであれば、さらにこうしなくてはならないということをいわなくてはならない。

読んでいて息苦しくなった。内容は、自己弁護であって、今まで色々言ってきた者への言い返しである。猪瀬知事、小池知事、さらに、週刊文春、週刊朝日。

中味の真偽は、当方の知るところではないので、何ともいえないが、言われたことには、反論しておこうということにしか意味が見いだすことができなかった。

そういう意味では「遺書」であったかもしれないが、少なくとも「東京五輪への覚悟」ではない。

結論は、この本で、何か新しい発見があったわけでもなく、今後の指針になるようなこともなく、楽しいものではなかった。

我々は、捜査対象か、犯罪から守られる対象なのか。

オウム真理教や、古くは、連合赤軍など「組織的犯罪集団」に対して、我々は全く無防備である。

国家権力により、これらの集団から守られなければ、自力で守るしかなくなるではないか。こんなことはできるわけもない。だからこそ、国家権力に警察力を与え、委ねているのである。

「一変」したか否か、予め示すことはできないものであり、組織が「団体の意思」として、一定の意思決定を行ったときに認定されるものである。

早く見つけて、犯罪を防止してほしかったという方が、一般の方の考えである。

裁判所の令状を取って強制捜査が可能となるわが国において、国家の暴走は幾重にも予防線が張ってある。批判のための批判は止めた方がよい。いつまで経っても、貧相な論戦から脱却できない。

我々は、国家の庇護のもとにある。その国家をいかに真っ当なものとするのか、そのために我々は何をするのか。それぞれがある一定の行為を行うときにはその意義を考えることが重要である。

一般の人は、犯罪とは無縁な世界にいる。それでも対象になりそうだと、国家権力が考えるとしても、その対象となる行為の非犯罪性を説明できないわけがない。それ以上、一般の人の行為で問題となる行為とは何か。何でもかんでも、野放図にして良いというものではない。

ご無沙汰です。

昨日は、家族で焼肉屋で懇親会を行いました。しかし、これが大失敗でした。

注文をなかなか聞きに来ない。持ってくるのが遅い。持て来る順番を間違える。

お客様にとっては、自分がお客様として扱われているかどうかが、最も重要な要素。

遅くてもいいんです、ただ、お客様のことに気を配っていますよいうことが分かれば。これがないと、全くダメなんです。

 

何事もそうです。できなくても、相手の意に添うようにしていますということが重要なんです。