私が通う小松川教会で昨日の夜に行われた祈祷会では、
聖歌は、
聖歌472番「人生の海の嵐に」
聖歌199番「輝く姿は」(参加者のリクエスト)
聖歌496番「主と主のことばに」
を歌いました。
今回歌いました
聖歌472番「人生の海の嵐に」は、
新聖歌248番
にもなっております。
参加者のリクエストでは
聖歌199番「輝く姿は」
を、私がリクエストをしました。
この曲は歌詞が異なりますが、
新聖歌145番・讃美歌194番「さかえにみちたる」
になっており、この曲のメロディは、ドイツの国歌にもなっております。
3曲目の聖歌496番「主と主のことばに」は、
新聖歌324番
にもなっております。
この聖歌472番・聖歌496番は、過去に何度か祈祷会で歌ったことがあります。
お祈りでは、まず参加した皆で、旧約聖書の「イザヤ書12章2,3節」を読み、私は
「今度の礼拝のこと」
「寒い日が続きますが、皆様が無事であること」
をお祈りしました。
聖書の学びでは、新約聖書の
「ヤコブの手紙5章1~6節」
を学びました。
1節「富んでいる人たち~泣きわめきなさい。」聖書は“富”自体には非難していませんが、富を持つ責任と富める者が持つ危険に関して厳密な主張をしています。
当時“富”として主要な物には、“穀物”“衣服”“金銀”がありました。
ヤコブは、2,3節「富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀はさびてしまいます。」という、この世では避けることが出来ない変化の事例を挙げています。
高価なものであっても、富を使うことを惜しんで相手に対して使わず、そのまま独り占めしていれば、やがて崩れ腐ると述べています。
食べ物も、食べると無くなるということを惜しんでそのままにしておくと、やがては腐り、食べられなくなります。
この例えは、この世の富が決して永遠に続かないことを示しています。
“この世の富にしがみ付いている者”は、罪によって“必ず泣きわめく”時があるとの戒めの言葉です。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」
(ルカによる福音書6章24節)
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」
「富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書6章19~21節)
(ルカによる福音書12章33,34節)
ヤコブは具体的な事例として、4節前半「畑を刈り入れた労働者に~叫び声をあげています。」隣人を邪険に扱い、本来払うべき賃金を惜しんで不払いという不当な扱いが“罪の証拠”となり、叫び声をあげています。
5節「あなたがたは~自分の心を太らせ」
6節「正しい人を罪に定めて~あなたがたに抵抗していません。」贅沢な暮らしをして快楽にふけ、自らを豊かな暮らしを楽しんでいる。
これは、富んでいる人を作り出した要因でもあると指摘しています。
さらに、抵抗していない人々の命も奪う行為も行っています。
また、この抵抗していない人の命を奪う行為は、神の独り子であるイエス様を十字架に架けて失うということでもあります。
イエス様は私たちの隣人として、抵抗せず惜し気もなく命を差し出してくださいました。
「苦役を課せられて~彼は口を開かなかった」
(イザヤ書53章7節)
「捕らえられ、~命ある者の地から断たれたことを。」
(イザヤ書53章8節)
4節後半「刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」主の耳には、虐げられている人たちの声が耳に届いていると現しています。
イエス様の十字架は、全ての人が罪から救われるための贖いのためですが、そのために神が用いた手段は、最も大切なものを捨てることでした。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(マタイによる福音書16章24節)
(マルコによる福音書8章34節)
(ルカによる福音書9章23節)
日本基督教団小松川教会の祈祷会では、
新共同訳聖書(日本聖書協会)
聖歌(日本福音連盟)
(時期によっては1954年版讃美歌)
を使用しています。
聖歌は、
聖歌472番「人生の海の嵐に」
聖歌199番「輝く姿は」(参加者のリクエスト)
聖歌496番「主と主のことばに」
を歌いました。
今回歌いました
聖歌472番「人生の海の嵐に」は、
新聖歌248番
にもなっております。
参加者のリクエストでは
聖歌199番「輝く姿は」
を、私がリクエストをしました。
この曲は歌詞が異なりますが、
新聖歌145番・讃美歌194番「さかえにみちたる」
になっており、この曲のメロディは、ドイツの国歌にもなっております。
3曲目の聖歌496番「主と主のことばに」は、
新聖歌324番
にもなっております。
この聖歌472番・聖歌496番は、過去に何度か祈祷会で歌ったことがあります。
お祈りでは、まず参加した皆で、旧約聖書の「イザヤ書12章2,3節」を読み、私は
「今度の礼拝のこと」
「寒い日が続きますが、皆様が無事であること」
をお祈りしました。
聖書の学びでは、新約聖書の
「ヤコブの手紙5章1~6節」
を学びました。
1節「富んでいる人たち~泣きわめきなさい。」聖書は“富”自体には非難していませんが、富を持つ責任と富める者が持つ危険に関して厳密な主張をしています。
当時“富”として主要な物には、“穀物”“衣服”“金銀”がありました。
ヤコブは、2,3節「富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀はさびてしまいます。」という、この世では避けることが出来ない変化の事例を挙げています。
高価なものであっても、富を使うことを惜しんで相手に対して使わず、そのまま独り占めしていれば、やがて崩れ腐ると述べています。
食べ物も、食べると無くなるということを惜しんでそのままにしておくと、やがては腐り、食べられなくなります。
この例えは、この世の富が決して永遠に続かないことを示しています。
“この世の富にしがみ付いている者”は、罪によって“必ず泣きわめく”時があるとの戒めの言葉です。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」
(ルカによる福音書6章24節)
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」
「富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書6章19~21節)
(ルカによる福音書12章33,34節)
ヤコブは具体的な事例として、4節前半「畑を刈り入れた労働者に~叫び声をあげています。」隣人を邪険に扱い、本来払うべき賃金を惜しんで不払いという不当な扱いが“罪の証拠”となり、叫び声をあげています。
5節「あなたがたは~自分の心を太らせ」
6節「正しい人を罪に定めて~あなたがたに抵抗していません。」贅沢な暮らしをして快楽にふけ、自らを豊かな暮らしを楽しんでいる。
これは、富んでいる人を作り出した要因でもあると指摘しています。
さらに、抵抗していない人々の命も奪う行為も行っています。
また、この抵抗していない人の命を奪う行為は、神の独り子であるイエス様を十字架に架けて失うということでもあります。
イエス様は私たちの隣人として、抵抗せず惜し気もなく命を差し出してくださいました。
「苦役を課せられて~彼は口を開かなかった」
(イザヤ書53章7節)
「捕らえられ、~命ある者の地から断たれたことを。」
(イザヤ書53章8節)
4節後半「刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」主の耳には、虐げられている人たちの声が耳に届いていると現しています。
イエス様の十字架は、全ての人が罪から救われるための贖いのためですが、そのために神が用いた手段は、最も大切なものを捨てることでした。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(マタイによる福音書16章24節)
(マルコによる福音書8章34節)
(ルカによる福音書9章23節)
日本基督教団小松川教会の祈祷会では、
新共同訳聖書(日本聖書協会)
聖歌(日本福音連盟)
(時期によっては1954年版讃美歌)
を使用しています。