「人間は考える葦である。」とはフランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家であったブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年 - 1662年)の言葉である。彼の業績については今さら説明することのないほど偉大であり、まさに天才と言っていいものである。

その彼をしても、人間は弱い葦のような存在であると認識させざるをえない。しかし、彼は、人間の尊厳を、宇宙よりも尊いものがあると気付いた。すなわち、人間はその弱さを知っているということである。そう、人間は宇宙と違い、考えることができるということである。宇宙がなければ人間は存在しえないけれど、人間は自ら考えることができるという尊い能力があるのである。

宇宙は百数十億年もの気の遠くなる年月により変化し、形作られてきた。しかし、人間は自らの意思により、さまざまなものを変え、つくってきた。宇宙の果てしなき壮大な物語やスケールには及ばないながらも、人間の行ってきた創作的な営みは、決して宇宙がなしえないことである。その意味で人間は素晴らしい存在である。

人間を人間たらしめるもの、それは思考する存在たらしめる、至高の存在である「脳」の働きである。人間が二足歩行し、自由な手を獲得し、言語によるコミュニケーション能力を持つに至っても、「脳」による創造的な指令がなければ、人間は今日のような文化的、芸術的な活動を行なうことはできないのである。その意味で、人間が人間として活動するためには、脳力を必要とするのである。

しかしながら、今日の教育や学習は知識を得ることに終始し、基本的な能力である脳力を向上させる術(すべ)を持っていない。これこそが、人間の今日的な問題であり、これからの大きな課題といっていいのではないのだろうか。しかし、その方法について、ほとんど進歩していないというのは、とても不思議なことであり、残念であり、大問題なのであろう。そもそもそのような方法が存在するのか。人類の歴史の中で勉強術ばかりが広まりながらも、その勉強術を身に付けられないでいる状態なのではないだろうか。人間の能力、脳力を高めることができない限り、AIを使いこなすことも難しく、これからの情報社会において、情報を分析し、処理することは一部の人間以外はできなくなってしまうのではないだろうか。今後は人間の能力、脳力を高める方法が望まれることだろう。

最後に、人間は確かに自然界では尊い。しかしながら、この大宇宙の中で、思考し、自然や物事を変革していく力を持っているが、その能力の小ささは否めない。人間以上の至高の存在というものがあるのか、考えてみることも必要だろう。人間が生きている年月の間に成し得ることは少なく限界があるので、人間以上の存在である大宇宙について、もう一度考えてみることは必要だろう。その過程の中で、人間としての生きる意味と、どう生きるべきかを問い直してみるべきだと思う。

世の中で開祖、創業者といった偉人の名はとても有名ですが、開祖が起こした組織は、国にしろ、宗教にしろ、会社にしろ、どのような組織も永続させることは簡単ではありません。その時々の状況で反乱や分裂、不況や資金繰り悪化、不祥事、統治不能などの要因により、衰退、消滅してしまうこともあります。

 

組織のリーダーである王、皇帝、大統領、首相、主席、書記長、カリフ、イマーム、征夷大将軍、藩主、法主、座主、門主、管長、教皇、総主教、師、グル、ラビ、社長といった方々は、皆、その組織を維持発展させていく使命を帯びています。組織とその内外の状況を的確に判断し、適切かつベストな決定をして、実行していかなければ、組織を存続させること、成長どころか現状維持に影響を与えてしまいます。場合によっては取り返しのつかない事態になることもあり、その責任は重大です。


こういった組織のリーダーとして、開祖の成した事業を維持、発展させる中で、特に重要な役割を果たしたリーダーを「中興の祖」と言います。中興の祖はリーダーほど有名ではないこともありますが、歴史上はさまざまな偉大な方々がいます。創業の後において、組織を維持、発展させていく中で、組織の危機的状況において改革を行って建て直す必要が出てくる場面は、組織の存続に関わることもあります。創業は一代かもしれません。しかし、組織をさらに発展させていくことは、危機的状況を乗り越えながらであるため、特に国家のような規模であればなおさら一代で行うことは難しいということを考えます。そういう意味でも中興の祖は組織発展への貢献は多大であります。
そういった中興の祖ですが、このような方々がいます。

徳川吉宗―江戸幕府第八代将軍
上杉鷹山―出羽米沢藩・九代目藩主
興教大師覚鑁上人―真言宗の中興の祖(宗祖弘法大師空海が有名ですが)
蓮如上人―浄土真宗・中興の祖(親鸞聖人が有名ですが)

 

今日、昔に買った本をインターネットで調べていたら、絶版になっているものが多かったです。出版された当初よりも値段が上がっているようなものもあり、役立つ有用な本は、人々に求められているのだと思いました。このような本が絶版になったのはとても残念なところです。

インターネットが普及し、さまざまな情報が行き交っています。たくさんの情報があるので、情報はただで手に入ることも多いです。そのうち、本を買って読まなくても、ネットで調べればわかる、と思うこともあります。けれど、いろいろと検索しようとすると、ほしい情報がネットでは見つからないことも多くあります。ネットでは細切れの情報がありますが、時間をかけてよく吟味して編集して整理されている情報は少ないです。ネットの情報は、きちんとまとめられた情報ではなく、断片的な感じの情報です。使いやすい情報になっているとは限りません。もちろん、ネットは個人がブログやホームページを駆使して、イラストや図など様々なものでわかりやすくしたものもあるので、それはそれは面白く分かりやすいものもあります。また、ネット通販や情報検索は、アナログの本では到底できず、インターネットがあってこそのものだと思います。

出版された本は、索引があって、各章のタイトルがあり、論理的になっていたり、箇条書きにされたりして、読みやすくなっていることが多いです。ネットで見るよりも、紙の本のほうが読みやすく、読む時間も速いです。インターネットの時代になっても、出版された本にしかないような情報も多いです。本はこの先も、さまざまな学びや情報の手段として必要であり続けるものだと思います。

私はというと、昔はインターネットで探すようなことはできなかったので、古本屋さんで見つけるなどしたものです。旅行に行った時に古本屋さんでお目当ての本が見つかったなどということもありました。でも、現在はネット検索で出てくるものも多いですね。日本中を旅したり、電話をかけたりして探しても、見つかるとは限らなかった時代と比べて、とてもすごい時代になりました。本当に有益な本というのがあります。時代が変わっても色あせない価値についての本は、ずっと残ってほしいものです。