旧約聖書、イザヤ書43:2
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
聖書の神様は、義の神。そして、その義は神の全人格でありこの義を神は全人格を持って追求する。
そのため、人が神様に義と認められるには全てが義でなければならない。が、それはどんなことをしても人間の力では不可能である。どんなに良い人間であっても完璧な義なる人はいない。新約聖書ローマ3:10にはこうある。「義人はいない。ひとりもいない。」
そのため、神は一人子イエスキリストを人間の罪を赦すため、十字架にいけにえとして捧げた。イエスキリストは神であったが神であることを捨て、人となりこの世に来られた。そして一つの罪を犯さず、聖いいけにえとして十字架に掛けられた。この十字架を通し人は罪赦され、神により義と認められるのである。
イエスキリストは十字架に掛かり死んだ後、3日目に甦られた。
これはイエスキリストが死に打ち勝ったことを意味する。同じように、イエスキリストの十字架を信じるものは罪が赦され、永遠の命を得る事ができるのである。
前置きはながくなったが、イエスキリストを信じるということは、自分の人生を神に委ねること。つまり、自分に死にそして神のために生きることを意味する。マタイ10:38,39 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしいものではありません。 自分のいのちを自分のものとしたものはそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」。
この世の法則とはまったく正反対である。この世の法則はサタンが支配しており、サタンは人と神とを結ばせたくない。サタンの声は一見ものすごい魅力的だが、その声に聞き従うと死に導かれる。自分で自分のことをコントロールしたいと思いも最後には死につながってしまう。神以外のものに安住する場所を探しても、永遠に安住できる場所は決してない。
しかし、自分の人生を神の御手にゆだね自分の主導権をあけ渡したとき、全宇宙を創造された神の力が私たちのうちにあらわれるのである。イザヤ書43:2のことばはその一つである。神に人生をゆだねると、そこには神の聖さ義に対する畏怖、神がともにいることの平安そして、大きな大きな喜びがある!
ネガティブな思いがポジティブに変わっていく。憎んでいた人を愛せるようになる。人のために仕えたいと思うようになる。心が愛で満たされる。これは決して自分では到達できない場所である。
私は今までクリスチャンであると思っていた。しかし、そうでなかった。なぜなら、同じ過ちを何度も繰り返し、家族を傷つけてきた。それに自分の心の奥底に握っていたかったものをあけわたしていなかったから。喜びがなかった。しかし、私は変えられてきている。
