映画『ストーカー』
今日は、過去の作品を載せようと思いましたが、映画の紹介をします。
タルコフスキー監督の『ストーカー』です。
ネタバレを含みますので、知りたくない方はここでストップです^^;
なぜタルコフスキーの映画のことを書こうと思ったかというと、好きな監督を3人挙げるとしたら必ず挙げる監督ということもありますが、タルコフスキーに指導を受けた監督と少し話す機会があり、改めて鑑賞してみたくなったという経緯があります。
稀有な機会だったのですが、興奮して頭が白くなってしまい、言葉にならなかったのが心残りです。
監督が勧めてくださった映画も折を見て、ブログで書きたいと思っています。
タルコフスキーで好きな作品は、今回挙げる『ストーカー』ではなく、こちらの作品はどちらかというと怖くてあまり観たいと思う作品ではないです。
最後は救いなのですが、映像が美しい分、想像力が描きたてられます。
映画の嗜好に関していうと、一般的には鑑賞者の親和性によるものが大きいので、評価はそれぞれ異なると思います。
美しい映像、眠たくなるような時間の流れに親和性を見い出す人もいれば、タルコフスキー本人が求めるところの、観客に深い内的な体験を与えたい、自分自身の体験を観客に分かち与えなければならないという決心、真理の追及とその思考、平和への想いなどに親和性を見出す人もいると思います。
気軽に語ると大火傷を負う監督だと思いますし、語彙力、理解力に乏しい私が書くこと自体畏れ多いのですが、何故挙げたのか、回りくどいかもしれませんが、個人的な考えを書いていきます。
詳しいわけではないです^^;
まず、タルコフスキーは、ロシア正教、東洋思想、TAO(道)、ドフトエフスキーに影響を受けています。
これは、人種、宗教、風習などの違いを超えて共通する理想に基づいているものであると思われますし、良心や理性を重要視するタルコフスキーの思想は深く突き刺さるものがあります。
TAO(道)については、自然や無為を重んじるという意味で、墨家以前の思想を理想としているように思われます。
「私の言う理性は、全宇宙を包み、宇宙に存在する一切のものをすっぽり包む理性や良識なのである。 (中略)このような理性を「道」という。」と本人が語っています。
真の道教は、非攻、節約とされますが、今日に至る中華思想を考えるともっとプリミティブなものを指しているのでしょう。
墨子以前から道教的な思想は存在していたようですが、どうやらもっと自然に溶け込んで当たり前のような良心、道徳があったようです。
タルコフスキーは、現代の物質的世界、マルクスを批判しており、偉大な理念は勝利することなく滅びた(!)としつつも、神や自然、時間のなかに完全に溶け込んでいる東洋的な思想を賞賛しています。
視覚的に分かり易く言うと、日本画の川合玉堂の絵の世界観でしょうか。
四季が織りなす美しい自然とそこで生きる人間が全体的なテーマであって、両者が溶け込み、主役が不在。
東洋と西洋の音楽を対比させ、西洋は自己主張一辺倒で、東洋は己について一言も言わないとも語っています。
キリスト生誕より600年前の中国を理想としているのですが、600年前の中国って何を指しているのですかね?
前述した道教のことでしょうか。
歴史に疎いので、分かりませんが、中国ではなく日本のことの気がしますし、神武天皇が実在していたかの話は別として、それ以前のことのように思われます。
何にせよ普遍性を感じる芭蕉の俳句を非常に愛していましたし、日本の浮世絵のコレクターでもあり、映画では日本の松や音楽、高速道路などが出てきます。
台詞でも広島の原爆について度々出てきます。
黒沢明にも影響を受けていて、天才と呼び、映画の解説もしています。
さて、この映画に関していうと、
誠に勝手な個人的な感想ですが、原爆を連想させられるシーンが暗喩的にあちこちに散りばめられていると感じます。
台詞を書き起こしましたが、恐ろしくなって引用を辞めました。
この作品は、1979年のソビエト映画です。
チェルノブイリ原発事故の前に発表している点がまた目を見張るものがあると思います。
内容的にもこの当時公開できたことに驚かずにはいられません。
映画を流れる時間も、けだるい夢のような動きから無秩序に動揺した疾走するような動きまで、計算され、息を飲むものがあります。
タルコフスキーは、象徴ではなく、引喩、イメージを表出させることに拘りを持っています。
他の映画で引用したダヴィンチやブリューゲルの絵、詩や音楽なども単独で強烈な印象を持っているため、 本来の意図と全く異なる意味を獲得して、正当な場から移動してしまうなどと、効果とその反面についてジレンマもあったようなので、引用元を気にする私は憤慨の対象かと思われます^_^;
それに、プロの批評家に作品を賞賛されるときでさえも、概念や視点が本質と逸れていて、作品に対して無関心で理解する力がないと感じることがよくあったらしいです。
観客は自分たちの混乱した思考を最終的に整理したいと願っているけれど、複雑なもの、神秘的なもの、象徴的なもの、観客が考えるような隠された意味などないと述べていますし、それを言うと観客にがっかりされると本人ががっかりしています…。
「誤解されたとしても、真摯なものであれば、注目に値する。
精神世界の現実を彼を取りまく現実によって生み出されたあがきと戦いの現実だから。」とも語っているので、
とにかく歴史や社会を集積として傍観する立場ではなく、 スクリーンの示す人々の人生と自分の人生とを結びつける、個人的な自分自身の経験として映画内容を捉えて欲しいと思っていたようです。
やはり日本の古典詩に対する眼差しが、映画の性質に反映しているように思います。
というのも、俳句はイメージが非常に多くのことを意味していて、反復不可能な普遍性、永遠性を簡潔に捉えているからです。
この映画の主要テーマは、尊厳の欠如に苦しむ人間です。
絶望の中、あることに気付いた良心は悲劇性を伴うものでもあります。
作家たちは、未知のものと出会ったり、それに驚愕するためにゾーンに赴きましたが、本当に驚かされたのは、妻の誠実さと尊厳、愛、忠誠であり、愛は現代社会においても最後の砦なのです。
著書から『ストーカー』についての記述を引用します。
「人間の愛こそが世界にいる希望はないとする無味乾燥な理論者に対抗できる奇跡であるということを、はっきり、率直に語っているのだ。」
「本質において、空想的なものはひとつもない。すべてはいま起こっていることであり、ゾーンはわれわれのすぐそばにある、ということを観客が感じられるように、映画を作ろうとしたのである。
ゾーンはなにかを問われ、怒りと絶望におちいる。
ゾーンは人生であり、そこを通る途中で、挫折する者もいれば、なんとか持ちこたえるものもいる。 人間が持ちこたえられるかどうかは、重要なものと過渡的なものを区別する能力と人間としての尊厳に依存している。
私の義務は、ひとりひとりの人間の方魂のなかに生きている独特の人間的で永遠なるものについて考えさせることだと私は考えている。
空想は精神的葛藤を鮮明に浮き彫りすることができる箱にすぎない。」
『ストーカー』はストルガツキー兄弟の小説が元です。
その小説がただの器でしかなく、意見が衝突してしまったことは有名な話ですが、主要テーマが小説に要求されたSF的要素によって曖昧にしてしまったと嘆いています。
日本のレンタル屋さんでもSFコーナーに置かれています。
ラストの美しいイコン的な描写が優先されてしまいましたね。
SFではなく、フィルムに定着されたリアリズムを伝えたいと語っています。
それを抜きに考えても、「ファンタジー」の日本語訳は、現実から乖離した途方も無い空想、幻想なので、対極にあるように思えますが、現代においてはその垣根がなくなっているように思います。
VRの認識を超えて、AR、MR…
監督が撮った他の作品、『惑星ソラリス』でもちょっと見方を変えるとそのような将来の予知のようなものも感じます。
タルコフスキーの課題は、自分自身の経験や理解を通して、観客に真実を伝えることだとしてますが、著書に分かりやすい箇所があったので、また引用します。
「こうした真実を伝えが快い楽しいものであるのとはほとんどない。
映画監督の課題は、人生を再現すること、その動き、矛盾、傾向や戦いを再現することである。
監督の義務は、かれが手に入れた真実の一滴たりとも、その真実が、たとえだれかの気に入らないものだとしても、隠蔽しないことだ。
なにを描くことができるか、なにを描くべきでないかについて討論や議論をするのは、真理を歪める通俗的で、非道徳な試みである。
真に芸術的な構想は、芸術家にとってつねに苦悩に満ちたものであり、ほとんど生命にかかわるほど危険である。
そしてこのような構想を実現することは、人生上の決断とのみ比肩しうる。
芸術家の語る世界が絶望的であればあるほど、その世界と対置される理想は、おそらくより強く感じられるに違いない。
精神的危機を通過することでつねに健全な状態が生まれてくるのだ。 魂は調和を渇望しているが、人生は不調和にみちている。
この不一致のなかに、運動への刺激とわらわれの痛みと希望の両方の源泉が存在する。」
一貫して感じるのは、内在的に備わっているはずである、良心の観念、感覚と物質的社会との不均衡について、そして永遠なる人間の愛について。
タルコフスキーも「観客に自分のなかにある、愛する欲求、愛をささげる欲求を感じさせ、美の呼び声を感じさせること」を義務だと述べています。
現代における人々の交流について問題を提起し、他人からできるだけ沢山奪って自分のものとし、自分の利益は一切手離したくないという態度を非難しています。
芸術的な美しい映像と音と、そういったことを考えながらこの映画を観ると感慨深いです。
もっと評価されてほしい映画だと思って、監督の言葉を交えて挙げました。