受容人間について
人(現代人)は本来、相対的な生き物。
自己と他者を比較して生きている生き物。
何かを絶対的に捉えることは、精神世界に精通していなければ不可能だと思う。
比較の必要のない“絶対”という言葉でさえ、相対化して成立しているように思える。
「自分は何者にも惑わされない」という言葉ですら他者とを比較した言葉。
ただし、自分自身を認識できる状態は必要。
自我という認識も、“他者を認識し、自分を意識すること”。
他者を認めることで存在するのが自我。
その自我について、たまに思うことがあります。
自分の考えを一方的に押し付けていることにさえ気づかず、
自分が絶対の存在だと思っている人が多いと。
自分の思うこと、考えることに沿うものでなければ正しくないとする。
私が重要視するのは、相手の立場に立ち、気持ちを考え、
否定することなく、溶け込むかのように自分の考えとして考えること。
それができないことが多いけれど。
“こういう考えがあるのだ”と相手を受容することが様々な場面で求められていると思う。
異質なものを受け入れるのではなくて(※)、異質なものの“存在”を受け入れ、
自分の中で異質なものを理解しようと努力する心の豊かさ、寛容さ、思いやりが大切。
(※)芯がよほどしっかりしていなければ、舵のとれないふねのようになってしまう。
「どうせ理解できない」、「理解してもらえない」と嘆くのではなく、
自分の気持ちや行動の意図を察しようとしてくれる相手の行為に対する感謝も必要だと思う。
それと、よく思うのが、
一般的に良しとされる考えなどに完全に同調するのが良くない場面が多いということ。
“和して動ぜず”
間違ったとされるような考えでも必ずしも捨てる必要はないと思う。
自分の考えなり信念なりを持った状態で、
相手を理解しようと努力し、その相手に対する優しさこそが大切
(これは分かっていても感情などが邪魔することが多い)。
異質なもの同士の橋渡しになることも重要。
ただ、自分がどちらかに染まり過ぎないでいたい。
我がなくなればなくなるほど、心に安らぎが生まれる。
我が強いのは、“自分が受容されていない”という潜在的な意識によるものでもあると思う。
受容人間は、自分が自分に受容される(うる)ことを知っている。
故、他者に受容され、他者を受容することができる。
精神世界でも俗世間でも穏やかに過ごし、溶け込んでいる人ほど
精神が豊かなのではないかと思う今日この頃。
自分と逆の人間のようだ。
観念世界から脱出して、本来の自分へと還ろう。
忌々しい出来事ですら、偶然ではなく、起こりうる出来事は全て必然。
全てを肯定し、何が自分を正そうとしているのか、どうしてその出来事が必要だったのか考える。
何を自分に教えようとしているのか。
そして、自分の中に染み付いた内的組織に潜む闇を救い出す。
意識的に受容した苦しみは、糧となり朧げな光になる。
無理することなく前に進みたいものだ。