運命に従順か。他者と自分。
皆様のブログへ訪問、ペタ返し共に3,4日間していませんでした
すみません。
伺っていないのに、見に来てくださった方(アクセスが沢山ありました)、
ペタを残してくださった方ありがとうございました!
中には、気に掛けてメールしてくださった方が数名いらっしゃって、
感謝の気持ちでいっぱいです。
少しずつ、皆様のブログへ訪問させていただきます。
楽しみです
あっけらかんとした記事内容にするのもなんなので、
前回の記事からは反れますが、ちょっと真面目なことでも書きます。
以下は、あることに対する沈潜によって得たものだけではなく、
無意識に存在していた知識を他者によって喚起され認識したものでもあります。
事実かそうでないかは読む人に委ねられていますし、反発されても構いません。
通常拮抗しているシンパシーとアンティパシーもどちらかに傾くでしょう。
ご自身が考えることにより、反発といった形で私の考えが読み手に入り込み、
何かが読み手によって浮き彫りになったりするかもしれません。
それは、自己の欲のみとして働くのでなければ、良いなぁと思います。
アンティパシーは他者を排除して自分を主張する行為に他なりませんから、
自己顕示欲として満たされるのみで終わらなければお互い得るものがあると思います。
そういった種類の自我欲は果てしないですし。
とにかく他者の役に立ったのであれば嬉しく思います。
私は、ただ、自分の狭い判断基準によって学べる多くのことを遠ざけたくありません。
自分の性質や思考に沿うものだけに寛容にはなりたくないです。
鳥瞰して物事を見て判断できるよう努めてはいます。
思考は生き続けていますし、根底にあるものは変わらないとしても
向上心があればこれから何らかの力が働き、
訂正され変化していくものだと実感しています。
前振りが長すぎました。
頭がボーッとしているので、書けるかわかりません・・・。
今日の大袈裟な感じのタイトルに移ります。
文体が丁寧だったりそうではなかったり混ざっていくと思います。
本来全て丁寧語にしたくはないのです。
自他を見て思うことで、自問自答のような感じになるかもしれません。
中には自分に問い正していることもあります。
自分の運命(役割)に従順か。
与えられた可能性を無駄にしていないか。
紆余曲折を経て切り開ける可能性をもった運命かもしれないし、
本能、欲望の赴くまま無自覚に、あってはならない方向に進む可能性が強い運命かもしれません。
(「運命」という言葉で誤謬を起こす可能性があるので、そのうち補足します。)
障害を作ったのも、障害に対してどういうスタンスを取るか設定したのも自分。
生まれてからは本来知る由もないことですが・・・。
とても心地よい、しかしながら淀むぬるま湯(自分を堕落させる欲)に浸かって、
離れがたくなり、ただ単に享受された生活に没頭するだけの存在になるか。
終わりのない欲や恣意的な思考、行動に支配され自分を破壊させるか。
創造した新たな自分に出会うか、破壊された自分に出会うかは、
思考と覚悟と誠実さ、愛、聖なるものを信じる心にかかっています。
それでも自分には能力がないと見放し、自分で作った呪縛に嵌り、
日常に溺れていくか。
私の生活も、備わった能力も欠けた能力も、与えられた環境も、
備わったばかりのものではなくて、ずっと続いているもの。
一日の生活を終え、睡眠をとり、朝起きたからといって、
今までの行為や体験がリセットされるものではなく、
起きた自分に受け継がれ続けること。
それが記憶の中で失われても、引き継がれます。
(生前の話について一般公開では書きません。)
与えられた能力を活かしているか、埋没させ続けているか、
私はよく考えるところでもあります。
その事柄について他者を観察することもあります。
他者の本性の美しさに惹かれ、自分の中にその惹かれた部分を取り入れたいと思います。
気付かなかった自分の思考が他者によって喚起され、
その他者と似た、しかしながら別の手段を創造することもあります。
全く相容れぬ思考も勿論ありますが、それによって方向性を確信することもあります。
と言っても、相手のスタンスをきちんと理解できないことも勿論あります。
同じ物を見たとしても他者の色の感覚を知覚しているとは限らないので、
別のモノが備わった他者と同じものを知覚体験し、全く同じ印象をもてるわけではないからです。
育った環境が一緒でも、印象や思考は全く一緒というのは有り得ないことです。
また、
他者の本性、思考を他者の内に入って他者の本性や思考として観察思考できるわけでも、
自分を完全に無にすることができるわけでもなく、
他者独自の印象や知覚体験は他者の所有する無二のもので、
結局は自分の思考で外から判断するしかできないからです。
見者でなければ本当の意味で他者に入ることもできませんし、
見者であっても、取って代わるのでも他者の全くのコピーになれるのでもないです。
私が約束を守らなかったり、誠実に欠けた人間を
あまり受け容れない(=自分の性格の妨害)のと同様、
相手を全て受け入れることが最も重要ではない場面も存在していて、
相手と自分とを繋ぐ何かを創造したり、探したり、見出したりすることがそれよりも
重要だったりすることが多々あると思います。
異質なもの同士を橋渡しすることが色々な場面で求められていると思います。
自分が様々な経験を経て、今ここで自分であるのは、他者の影響もあります。
自分らしくあるために、他者の中に自分を探しているのでもあります。
私の運命は・・・。
遠回しでギリギリ一般公開。
また次からは、自然などの記事に戻ろうと思います。