大阪の生野コリアンタウンに行った時、コリアンタウン形成には歴史的背景が大きく影響していることことを知り、興味を持ちました。


そうなると、神戸の南京町中華街の発展に至る歴史も知りたくなったのです。


そこで、前回記事の遺構見学の前に中華街の外れにある神戸華僑歴史博物館に行ってきました。



神戸中華総商会ビルの2階が博物館になっていて、受付には誰もおらず中を覗くと電気が消えています。本棚があって、中国に関する中古本が置いていて、1冊100円で販売していました。確か今日は開館しているはず。


受付の隣りの部屋に人の気配を感じたので、「すみませーん」と呼んでみるとスタッフが出てきて、電気をつけて暖房を入れてCDラジカセで中国の歌の音楽をかけ始めてくれました泣き笑い


隅から隅までじっくり観て1時間半ほど滞在しましたが、来館者は私ひとりでしたあせる私設の博物館で、教室2室くらいの広さでしょうか。


入館して目に飛び込んで来たのは、え?司馬先生?!こんなところで何をしているの?私を待っていてくれた?(そんな訳ない)



いやぁー、びっくりびっくり。まさかこんなところでお会いするなんて!


司馬遼太郎氏は、華僑博物館の初代館長かつ神戸中華同文学校(中華学校)の初代理事長をしていた陳徳仁氏、副理事長をしていた陳舜臣氏と大阪外国語学校(現大阪外大)の同級生だったのです。


司馬氏の連載「街道をゆく」の神戸散歩で皆で顔をあわせたそうです。


ペンネーム司馬遼太郎は、司馬遷が由来なほど司馬氏は中国好きなのです。大国中国とその周辺の小国、日本や朝鮮、モンゴル、ベトナムなどとの相対的な関係が、娯楽のような研究対象だったそうです。

入館して、いきなりテンションがあがりました


神戸の中華街は、1868年神戸港開港後、長崎出島にいた華僑が神戸に来たのが始まりです。もちろん最初から今のような中華街ができたわけではありません。


日本はまだ中国(清国)と国交を結んでいなかったので、海岸通りに面した外国人居留地に住むことは許されていなかったのです。居留地に隣接した現在の中華街の場所に日本人と雑居することが許され、住み始めたのが、南京町の始まりです。


最初、華僑は無条約国民として扱われ、西洋人の使用人という身分でやって来ました。


その後、貿易商の華僑が入ってきて、中国人や居留地の外国人の生活を支える「三把刀(さんばとう)」と言われる料理業(菜刀:料理人の包丁)、洋服業(剪刀:仕立て職人の裁ち鋏)、理髪業(剃刀)のお店が多くありました。


当時の理髪業の道具


外国人居留地の住宅不足のため、北野界隈にも外国人が住めるようになり、居留地は職場、住まいは北野という外国人が多く、北野と居留地を南北に結ぶ通りがトアロードと名付けられました。


トアロードの山手には、トアホテルが見えたことからトアロードという名になったそう私は神戸に十数年住んでいるけれど、まだまだ知らないことばかりひらめき


トアホテル

ドイツ系資本の超高級ホテルキラキラ


トアロード(1935年)

通りの先に見える三角屋根がトアホテル


中国人は、西洋人の通勤路となるトアロードに西洋人向けのお店を出店していきました。


トアロードにあった華僑のテイラー(仕立て屋)


当時のミシン


アヘン戦争の影響で、広東や上海にはヨーロッパ各国商社の支店があったので、華僑は西洋人をお客とする商売や貿易のし方を知っていたのです。


日本は、長年の鎖国により、貿易について疎かったので、華僑は日本からはどんな商品が輸出できるかを考えたり、日本は海産物が特産だけど輸出するためには加工(例えば鮑は干すなど)が必要だと教えてくれたり、通訳など日本と西洋の貿易の仲介役をしてくれました。


華僑が、商売上手で「東洋のユダヤ人」と言われる所以が分かる気がします。

1933年頃の南京町


余談ですが、前回記事で旧居留地には日本企業が多いことが意外だったと書きましたが、最初は外国商館が多数だったけれど、第一世界大戦を境に多くの外国商館が退去したのだそう。


1931年に始まった日本の中国侵略戦争〜終戦まで間、華僑にとっては最も苦しい時代でした。厳しい監視と弾圧が続き、華僑が「通敵」「スパイ」など事実無根の嫌疑をかけられて拷問の犠牲になった神戸福建行商弾圧事件が起きました。



1945年、神戸大空襲があり、神戸は焼け野原となりましたが、三宮では闇市が発生し、南京町でも闇市や米兵や船員を相手にしたバーが出てきました。


当時は、ちょっと危ない雰囲気の漂うよう繁華街だったようです。


終戦後、捕虜や強制連行などで来日した中国人は、舞鶴港から日本の引揚げ船で帰郷。


引揚げ船では、日本人の引揚げだけでなく、中国人や朝鮮人の帰国船の役割も果たしていたのですね。


ここの博物館は、中立的な立場で華僑の歴史について語っています。日本人が中国人にしたことも淡々と事実が書かれていました。中国の戦争系の博物館は、反日感情が乗ったようなものが多いらしいので。


司馬遼太郎氏と同級生だった陳舜臣氏は、作家として『枯草の根』で江戸川乱歩賞など数々の賞を受賞しています。



陳舜臣氏は、「神戸華僑歴史博物館通信発行に寄せて」を寄稿していました。

歴史は鏡である。私たちは自分の本当の姿さえ(鏡を通してしか)見ることができないけれど、「歴史」という鏡を通して自分達を見ることができる。


未来は見えないけれど、歴史から推測することはでき、歴史という鏡には未来も写る。振り返るばかりでなく、未来を見越した目を持って前進したい。


というような内容が書かれており、歴史から学ぶこと、踏み止まるのではなく未来へ進むことの重要性を言葉巧みに表現されていて、作家力を感じました。


華僑の生き方は、まさに「落地生根」。日本社会に馴染もう、共生していきたい、そんな思いが伝わってくる博物館でした。


博物館は、共生共栄を目的としていると思われ、日本のことを悪くは言わず(歴史的事実は書かれていますが、差別を受けたことなどは書かれていませんでした)、華僑の悪事も言わず、綺麗におさまっていました。


どういうことかと言いますと、『待兼山論叢』の西島民江氏の論文によりますと、


当時の雑居地の状態は、道路の修繕が不十分であり、水はけが悪く、人家のまわりに土地を低くした溝を掘っただけの状態で、一度雨が降ると泥水がたちまち往来に流れだすといった有り様であった。


整備のための土木工事や貿易の振興に伴って来神した多数の日本人下層民衆も居住しており、一種のスラム街のような状況であった。


このような地に華僑の多くは住んでいたため、周囲の市民から、反衛生的、暗い、汚いといった雑居地の印象がその中に住んでいた華僑にも付与されていったといえよう。


当時、かなりの数の華僑が雑居地内で賭博、阿片吸引、淫売を行い、ごく日常的に行われていた犯罪であった。事件的要素は、少なかったが日常的に横行していたため、醜悪なイメージが華僑社会全体に広がり、華僑に対して嫌悪感を持ち、蔑視という態度が示された。


しかし実際には、西洋人の日本人に対する暴行事件の犯罪件数の方がはるかに多く、華僑による暴行事件は全くと言っていいほどなく、日本人との衝突を避けようとしていた姿勢が見える。


西洋人の犯罪は一時的な事件が多く、西洋人社会全体のイメージを悪くするものではなかった。政府側の西洋化思考により、居留地内の社会が日本にとっての理想の社会であり、羨望や憧れがあったからであろう。


こういうリアルな実情を知りたかったのよ!


博物館自体は、興味深く拝見しましたし、何の不満もありませんよ。


結局のところ、政府や社会、マスコミが差別や偏見を生み出す大きな要素となり得ると思わされます。


そんな蔑視を乗り越えて、南京町を観光産業として活性させるために奮闘した華僑の人達の底力、生き抜く力は、大いに見習うべき点だと思います。


今では、連日観光客が押し寄せ、神戸の観光名所として熱いですから。


南京町中華街の6つの人気店創業の経緯、ファミリーヒストリーの展示があり、どのファミリーもエネルギッシュでバイタリティーに溢れていましたキラキラ

展示を読んでいると、初代華僑の子孫達は、語学系の大学に進み、その後海外留学というエリートコースを歩んでいるケースが多く、もともとは貧困を理由に華僑となった人達が多いだろうに、背水の陣で這い上がり成長し続けている勢いにひるみそうになりました。私もがんばらなきゃと。


私にとって中国といえば、政治やお国柄など、共感し難い部分がなくはないですが、幸いにも職場やママ友に人間力の高い中国人女性、台湾人女性がいて、彼女達のおかげで、結局、国より個人として良い面に目を向けたいと思えます。


華僑による南京町形成の歴史は、なかなかにディープで、中国人のハングリー精神に圧倒されっぱなしでした。中国では、国は信用できず、何かあれば自分も家族も命が危ない社会であり、頼れるのは自分と家族だけで、何としてでも生き抜いていくことが最優先となるのだと思います。


お金あっての家族であり、一家総出で出稼ぎで利益を追求することは生きていくことであり、それは温室育ちの日本人からみると一見するとしたたかで拝金主義のような生き方に見えなくもないですが、中国の歴史や政治、社会をみると至極当然のことなのかもしれません。むしろ学ぶ点が多いようにも思いました。


ラーメンおまけコーナーラーメン

中国関連情報で、少し前に観た中国映画『在りし日の歌』が、良かったので紹介。

【ストーリー】
中国の地方都市に暮らすヤオジュンとリーユン夫婦。2人の間には一人息子シンがいた。同じ国有企業の工場で働く友人夫妻にも同じ日に生まれた息子がいて、彼らは互いの子の義理の父母としての契りを交わす。そんなある日、第2子を妊娠するリーユン。しかし国の「一人っ子政策」に反するため堕胎することになり、2度と子どもを産めない体になってしまう。悲劇はそれで終わらず、やがて2人は一人息子のシンまでも事故で失う。悲嘆に暮れた夫婦は、故郷を捨てて友人たちと別れ、見知らぬ土地に移り住む。

この映画、暗くて地味(静かな場面が多いという意味)なんですが、そこにリアリティを感じました。


中国って、、やっぱりそういう国なのねとお国事情(国の政策、共産主義、国有企業の大量解雇など)も伝わってきます。堕胎したことを、国の政策をしっかり守ったと表彰されたり、舞踏会に出かけたら風紀を乱したと逮捕されたり。


市井の暮らしが垣間見れるのもおもしろかったです。食事にはいつもマントウといわれるふわふわの蒸しパンが登場していた!


そして何よりキャストの演技がお見事!上手すぎ!約3時間もあるのですが観入ってしまいあっという間で、最後は涙なしでは観れませんでした。