昨年末、幕末に勝海舟の発案で創立した「神戸海軍操練所」跡とみられる遺構が、神戸港の埋め立て地で発見されました。


蘭子さんのブログで現地説明会があることを知り、行ってきました。ご紹介ありがとうございますニコニコ


その前に、中華街南京町の路地裏にある神戸アジアン食堂Salaというお店でランチを。

このSalaというお店は、アジア出身の女性が日替わりでキッチンを任されています。


結婚や夫の仕事の都合で来日したものの、日本語が話せず、日本に馴染めないアジアン女性の社会問題に目を向け、色んな背景を持った人達に働く場を提供し、暮らしやすい社会を作りたいと思った当時大学生だったオーナーが、オープンしたお店です。



そのコンセプトに共感し、応援の気持ちを込めて訪れたのですが、心配無用なほどの大繁盛店でした。


オープン当初は、閉店の危機が何度もあったそう。


ガパオご飯とグリーンカレー

食べきれないほどのボリューム。アロイ(タイ語で美味しい)!


お店にあった「世界のお弁当」という本を覗いてみると、どの国のお弁当も美味しそう。人が作ってくれたお弁当って特別な料理が入っていなくても何故か美味しくて好き。


韓国のお弁当の定番はキンパだそう。


ごちそうさまでしたよだれ


説明会は、海軍操練所跡碑のすぐ側です。石碑の後ろに見える建物がNTTです(後でNTTが出てくるので)。


どんな感じの説明会だろうと胸が高まります。


説明会は、予約制で1回30分の入れ替え制です。最初の7、8分、神戸市の埋蔵文化担当者が遺構について説明され、残りの時間は各々で見学しながら職員さんが3人程配置されているので自由に質問できるという形式です。


ここの土地はもともと民有地だったものをウォーターフロント再開発のため神戸市が買い戻し、発掘調査を行いました。


遺構の全体は、下の写真の通りで掘り起こしたら瓦礫がいっぱい出てきたといった様子で、これだけ見せられてもといった感じですよね。


神戸市ホームページの説明入り画像が分かりやすいので拝借。撮影角度が違いますがあせる


説明会資料に明治時代中期の第一波止場の写真が掲載されており、写真右側に第Ⅱ-Ⅳ期の遺構のもとだった防波堤と信号灯が見えます。

説明会の資料は、かなり力を入れて作られたそうで、遺構の詳細がびっしりと書かれており、大変分かりやすく、作られた方の熱意が伝わってきました。


参加者の年齢層はやや高めで男性が多かったです。こういうイベントでは、たいてい熱心に質問される方がおられるので、私も一緒に耳を傾けつつ見学しました。


今回発見されたのは、

⭐︎海軍操練所(1864-1865)時代の第Ⅰ期防波堤石積み

⭐︎神戸港開港(1868)時の第Ⅱ期防波堤石積み

⭐︎明治中期以前の第Ⅲ期防波堤石積み

⭐︎明治中期以降の第Ⅳ期防波堤石積み

です。


古い防波堤の上に新たな防波堤を築き、防波堤が重なり合っていることが分かります。


木の柱のようなものは、おそらく防波堤の芯棒となる松杭だそう。


発掘現場は、海軍操練所平面図のピンクで囲んだ突き出た場所の一部分だそう。


この北側で坂本龍馬が活躍していたのかなと想像するとワクワクします。遺構がとても価値を帯びたものに!


海軍操練所の建物自体は、発掘現場北側にある現在の東遊園かNTTあたりにあったのではないかと言われています。


1964年阪神高速建設にあたり、1962年からNTTより南側の部分の埋め立てを開始し、今回発見された埋まっていた防波堤の上に、さらに土が盛られることになったのです。


「子どもの頃、ここらへんが海だったよなぁと思って」と懐かしむ参加者もいました。


第Ⅰ期防波堤石積みは、布積み(平積み)。裏側が見えないので鏡に映してくれている!


第Ⅲ•Ⅳ期防波堤石積みは、谷積み。


TPとは東京湾の平均的水面の高さを0とした場合の海面の高さ。ちょうど海水に浸かっていた石の部分がやや黒ずんでいるのかな。


ちなみに現在、神戸はOTプラス約60cm、大阪はOTプラス約120cmらしい。みなさん、よく知っていてお話されていました。私は、おじさま達に混じって、へぇ!ほー!言っていました泣き笑い


当時、防波堤の奥に船溜まりがあったので、船の燃料がついたと思われる黒くなった石や船を塗料に用いた赤ペンキがついたと思われる石などがあり、その時代の様子が想像されます。




石に残された矢穴痕(石を割る際にクサビを入れる穴の痕跡)が遺構の年代を位置付けるにあたり重要で、石は色々な場所から集められ、お城の石などが転用石として使われたのではないかということらしい。



この発掘現場は、発掘が終了後、一旦埋め直すそうです。今後、遺構が見学できるように再発掘して保存するか、地下に埋蔵させたまま再開発するかは未定だそうです。


30分は、あっという間でした。とある参加者のおじさんが、「いやぁ、30分もう興奮しました!」と言っており、私の心を代弁してくれていましたニコニコ


ちょっと脱線して神戸港の始まりを。海軍操練所跡石碑の通りを挟んで向かい側に「網谷吉兵衛」顕彰碑が建てられています。


網谷吉兵衛(1785-1869)は、当時兵庫津(現在の神戸港)に停泊する船がフナクイムシの駆除を行うには讃岐国多度津にまで赴く必要があったことを知り、兵庫津に船蓼場(フナクイムシを駆除するための乾ドック)の建設を夢見るようになりました。数十年、資金集めと潮の満ち引き、海底の深さなどの調査に励みます。


この讃岐国多度津へのくだり、「菜の花の沖」に何度か出てきた!と、ひとり興奮。


そして網谷吉兵衛は家族の反対を押し切り、私財を投入して船蓼場を建設したものの、開運不況に見舞われ資金ぶりに苦しむのですが、1863年転機が訪れます。


網谷吉兵衛は、勝海舟の仲介で摂海防備のため阪神海岸を巡視していた徳川家茂に謁見。その後、借金は帳消しになったものの、江戸幕府に船蓼場を接収されて、1864年神戸海軍操練所開設、1868年兵庫港(神戸港)を開港します。網谷吉兵衛は、神戸港築港の先駆者だったのです。


以前、ブラタモリで神戸港がいかに港として適してるかを解明していてなるほどと思ったので、網谷吉兵衛は先見の明があったのだな、高田屋嘉兵衛→ 網谷吉兵衛→坂本龍馬と神戸港で精を出した人達がバトンを受け継いでいったんだなぁと顕彰碑を眺めながら思索にふけっていました。


鉛筆おまけ


ランチのお店から海岸通りを通って説明会会場まで行ったのですが、旧居留地のため異国情緒あふれる西洋建築が並んでおり、ここで貿易が盛んに行われたことが伝わってきます。


海岸ビルヂング(旧貿易会社兼松商店)




神戸メリケンビル(旧日本郵船ビル)


海岸ビル(旧三井物産神戸支店)


商船三井ビルディング


神港ビルヂング(旧川崎汽船)


チャータードビル(旧英国チャータード銀行神戸支店)

こちらはアメリカ人建築家が設計



旧神戸居留地十五番館(旧アメリカ領事館)


居留地に現存している建築物は、調べていくと日本人建築家が西洋建築を取り入れて建設した日本企業が多かったことが意外でした。チャータード銀行のように外国企業が多いと思っていました。街の地上にも地下にも歴史が詰まっていますね飛び出すハート