違う
どうも、ブログ初登場の福島創太です。
自分の名前、とても気に入っています。
そーたって呼ばれてます。いろいろと自己紹介とか夏のこととかアツく語りたいのですが、それはまぁおいおい。
初ブログが渡航のことということで若干身構えています。
基本的にこういう文章は長くなってしまいます。こういう事書いてるからですかね。
短くまとめるように努力します。
現地渡航は僕にとってとても大きなポイントとして考えていました。
僕はGLOBEの活動でもっとも、「伝える」という作業が難しいと考えています。
それは、元々その作業が難しいのと同時に、自分の五感からくる「言葉」ではないからだと考えていました。
だからこの渡航を経て、自分の中で何かが変わればと考えていました。
しかし、なかなか難しいものです。
何も変わらなかったのではありません。
理解ができなかったのです。
ようはすべてが揺らいだのです。
草原に暮らす人々、コンビニもカラオケも、テレビもない。道路も舗装されていないし、日本にあったらまともに家と呼べるような家に住んでいない人もいる。物乞いもたくさんいるし、ちっちゃな子どもでさえお金をくれといってくる。湖の上で生活している人だっていた。
地雷被害者の方々のお話を聞いたときもそうでした。
国境沿いには必ず地雷があると信じている方、家族に申し訳ないと感じている方、楽しく生きているけどやっぱりふとした時寂しくなると語った方。
いろんな方がいましたが、それを聞いてどう感じたかということを、僕は言葉にできませんでした。
ただ、そこで暮らす人々はみな豊かな表情をしていて、きらきらした笑顔をしていました。
「何が楽しくて生きているのか?」
単純でいて、とても大きな疑問でした。
僕には理解できませんでしたし、今でも理解できません。
ただひとつわかったことがあります。
自分が言う「理解」というのは、
「もし自分がここにいたら?」
という考えからくる発想だったのです。
それは、必要な発想だと思います。人がどう感じているか考えることは、思いやりです。
でもそうじゃないんだと、少なくとも自分の中ではそう考えるようになりました。
俺と、カンボジアに暮らす方は違う存在なんだと。
こういうと冷たく感じられるかもしれませんね。
でもそうじゃないんです。
自分はなんでこういった状況を理解できないのか?なんて冷たい人間なんだ、と考えても何も始まらないのです。
バックグラウンドが違えば感性や、感覚が変わってくるのは当然のことです。
ましてや、地雷が常に生活に密着しているという状況は、自らにバックグラウンドがあるはずがなく、理解するのが難しいのは当然だったのです。
欧米の先進国にいったってきっとそうでしょう。日本が先進国といわれる以上それは少ないのかもしれませんが、それでもいろんな衝撃があるはずです。それを理解できないのは、特に変わったことでも、大きな問題でもありません。
自分は、渡航中の出来事を自分が理解できなかった時「なんて心の乏しい人間なんだ」と考えました。
もしかしたらその発想自体がもっとも乏しい発想だったのかもなぁと、感じました。
違うからいい、違うから面白い。
理解するためには、違うということを理解することが必要です。
もっと理解したいし、もっともっと笑いあいたいです。
でも、みんな一緒だなぁと思ったこともたくさんあるんです。
それは笑顔がきれいなこととか、みんな人と接しているときは楽しそうなこととか、スポーツは世界共通であることとか。
うん、みんな同じ人間で、仲間です。
「違うこと」が生む笑顔はすばらしいです。
だって笑顔がどんどんどんどん広がるんだから。
今いる場所で笑顔になれなかったら、悲しい顔をしていたら、ちょっと顔を上げてみて、どうぞどこかにいってみてください。
きっと、そこには笑顔になれる場所がたくさんあります。
「違うこと」が生む涙は残念です。
違っていなかったらその涙はなくていい涙なのですから。
もし、地雷を踏んでなくなった方が、ここにいて、一緒に授業を受けるような存在だったら、きっと失わなくてもいい命だったはずです。
それは、なくしていきたい。
一人が笑える世界なら、きっと世界中のみんなが笑える世界になるはずです。
みんなで変えていけたらと、思います。
では、また。