「火と水に調和を 敵意はない」
風の谷のナウシカに出てくるセリフです。
変容、自我の崩壊、ゼロポイント…
そういったプロセスのなかで
どんな「出来事」を通してそれに気づくのか、
体感するのか、は様々だと思いますが
わたしは主にパートナーシップを通して
火と水のことばかり実践しながら
変化、鍛錬していたように思います。
(男性性と女性性ね)
(実践と変化のプロセスは今もこれからも続きます)
つまり恋愛や、人との交流を通して、
自分のなかの男性性と女性性の変化や
バランスに向き合っていた。知らん間に。
わたしは心も身体も認識も
「女」として一致しているけれども、
その時々で「男性的なわたし」になったり
とても「女性的なわたし」になったりして
なんかもうそういう細かいところは
相手も自分もどっちでもなんでもいいな
ってなってたのを今も覚えています。(笑)
魂に〝惚れた!〟ってなったら、
それ以外はどうでもよくないですか?(笑)
(今も内側から出るキャラクターは何でもいいです)
(やまとなでしこ七変化、な感覚が楽しいです)
わたしは自分の気持ちに従い進むなかで
頭では受け入れ難い出来事が起こったときや
心が揺さぶられるようなことが起きたら
(透明な壁にぶつかったような感覚のときとか)
「何に気づけってことなんだろう?」
「〝これ〟は何を伝えているんだろう?」
と、眺めるようなところがあるんですが
ただでさえ「感情」などのその他
〝内から湧いてくるもの〟や
〝どこからかやってくるもの〟は
頭でどうこうできるものではないけれど、
出来事を通して内側で起こる何らかの動きに対して
自分自身と向き合いながら潜在的なものを
顕在的にキャッチして〝気づき〟となる、ような。
(浄化・昇華)
「〝変えよう〟とかって思うんじゃなく自然と〝変わろう〟って思える関係って、結局は相手をそのまま受けいれる姿勢というか、自分の都合に合わせて相手を〝変えよう〟なんて思わへん心が大事なんやろうな。あとはそれにどれだけ気づけて感謝できるか」
「人は、変えよう変わろうなんて思わなくても、自然と変わりゆく生き物だし、自分らしく自分のペースで自然と変わっていけるような関係が素敵ね」
ツイン◯◯という言葉を知るまえに
2016年にツイッターに書いていた言葉です。
少し言葉足らずなので、
これらの言葉の真意を追記します。
自分の理想像を通して相手を観たり、
思い通りにならないことに対して
「外側(相手)を変えよう」とするのは、
純粋な愛ではないなあと感じた当時。
相手という存在をまずありのまま認め、
自分の気持ちや自分はどうしたいのかを
まず自分と確認して、その気持ちを尊重して、
自分の「意識」や「物の見方」のほうを変える。
そしたら「世界」や「感じ方」が変わる。
そんなふうな感覚を大切にしてきた。
相手に合わせて変えるのでもなく、
相手の理想になろうとするのでもなく。
そして、素直な気持ちで対話すること。
「今わからないこと」は、
今はわからないので、一旦傍に置いておく。
それよりも「今わかること」
「今の明確な気持ち」を大切にする。
何がどうなるかはわからないけど
どんな結果になろうとも受け止めよう、
流れに身を任せるしかない、というような。
自分に集中しよう、と過ごすような。
お互いの本質的なところは変わらないけれど、
それ以外のところは絶えず変化していく。
そこにある愛にどれだけ気づけて、
そこにある愛をどれだけ感じられるか。
これは、なんでもそうだなあ、と感じます。
そしていつかの記事で、
〝半分だ〟と感じたことを書きましたが、
これには続きがあって。
〝半分だ〟と感じていた頃、
あまりにも自分の内側にあるものを受け入れ難く
あらゆるものを見て見ぬ振りして
「離れる」という選択をしたとき、
身体の縦半分のエネルギーがズルっと歪む?
引き剥がされる?のがわかりました。
(とても言葉では表面し難いけど気持ち悪い感覚)
(本当に縦に真っ二つ、な感覚)
その頃、男性性や女性性という
知識も何も持ち合わせてなかったので、
「え、縦?半分って縦?」ってなった。
真ん中のラインから半身がズボッとなくなるような
強烈な体感が一瞬起こったのがわかった。
そして〝半分〟を超えて、
〝相手は自分なのだ〟ということが頭ではなく、
ダイレクトに感覚(体感)でわかる瞬間がありました。
そして〝特定のその人〟だけではなく、
ありとあらゆる存在のすべてが自分なのだと
深いところから体感を通して浸透していった。
(本来は〝知っている〟〝知っていた〟ような感覚、その体感が深まるような)
小学生の頃から
「人は鏡」「人の振り見て我が振り直せ」
という意識があったから
それまでは、いろんな人の〝一部分〟を
「ああ、自分にもあるなあ」と
相手を通して気づいたり、見直したり、
ただシンプルに合わない場合は離れたり、
そういう感じだったんだけど。
〝一部分〟の共鳴で仲良くなったりね。
その〝一部分〟が変化したら
波長が合わなくなっていったり、とか。
そういう意味での「相手も自分なんだなあ」
「気づかせてくれたんだなあ」というよりかは
ほんとうに、ひとつだったんだ、みたいな。
そして、自分という「存在」「根っこ」「源」は、
〝愛そのもの〟であることを憶い出すような。
それは同時に、すべての存在が
そうであるということなんだけど。
たとえ表面的にあらわれているものが
どんなこと(もの)であっても、
存在は、根っこは、みなが純粋な愛。
この〝深さ〟には段階があるように感じている。
感じていることの〝深さ〟と
〝視点の高さ〟はイコールのような。
(これはサイキック的な〝能力〟とは別です)
「本質」という「内なるホーム」という
ポイント?フィールド?が縦に伸びるような感じ。
うーん、言葉ってむずかしいね(笑)
とにかく、ふか〜〜〜いところで感じるものは、
とても抽象度が高い。
愛そのものである本来の〝わたしたち〟は、
自分の内の、とても深いところにいるからです。
※これは自我の崩壊レベル(成熟度)でもあるのかな
「あの世」から「この世」を観ている
その意識でこの世で肉体を持って存在している感じ
これはでも、ピュア度だけで言うなら、
〝生きてる人間〟であれば生まれたての赤児が
もっともピュア100%な気がする(笑)
そのピュア100%な愛が、
深まったり、大きくなったりするのです。
ただすでに現代で一足お先に人間として
生きてきたわたしたちには自我や観念があり、
いつからかそちらを〝自分〟だと思い込み
勘違いしちゃってるだけなんですね。
だから〝どれだけ進んでいるか〟は、
〝どれだけ還っているか〟と言えます。
自由奔放な、その〝いのち〟に。
シンプルに、どれだけありのまま素直か?
どれだけ本音で生きてるか?それだけです。
これは優劣の話しではなく、あくまでも段階や
プロセスとしてどこにいるのか?ということです。
わたしたちは皆対等で、皆が愛という存在です。
どこまでも脱皮(という変化や拡大)は
起こっていくだろうけれども、
愛の視点で観れば、みな対等、同じ、ひとつ。
(個性は様々)
鞍馬寺でもらった「赤心忘れるなかれ」という
メッセージが心に残っているんだけれども
あれは多分きっと、こどものような、
赤ちゃんのようなピュアなハートのこと。
まるで赤子のような純粋無垢なハートに、
人間ゆえの未熟ささえもまるごと包み込むような
紳士淑女のような成熟さを兼ね備えた精神。
けど、こんなことを書きながら
下っ腹の〝わたし〟がうずうずしてるので
〝そこにいるわたし〟のことを言っているのかも。
と思い調べてみたら、
「赤心」は、まごころ。丹心。
と書かれてありました。はい。笑
わたしにとって〝恋〟はときめき!
ぱああ!とか、きゅん♡とか、
ふぁああ…(グッと惹かれてる感じ)とか、
っっっ!♡とか、るん♪とか…etc
これはあらゆるものに感じられる。
もうハートがそうなるものはわたしにとっては
全部〝恋〟のエネルギー(笑)
そして〝愛〟は、真心。
(静寂のなかで凜とした空気を纏うような感じ)
書いててより明確になるよ。
〝恋〟のようなときめきのエネルギーは
心がすこし浮つくけれど
〝真心〟と言うとき、心は静かで
肚がグッとなる。凜と立つ。肚だね。
そして心は、ど真ん中に戻ってくる。
わたしの言う脱皮とは、
より純粋に還ることでもあるし、
その〝純粋なフィールド〟から
その意識がより拡大することでもある。
今、パートナーとしてわたしのそばにいる
(そういう口約束?はしたことはないけれど)
彼がツインなのかどうかとかはまじどうでもよくて、
どんどんシンプルになります。
「居たいから居る」
「相手は相手というひとつの愛の存在である」
人は皆鏡だけれども、濃度が違う鏡のような。
(似てるけど どこか違う だけど同じ匂い byミスチル)
なんかわたしはね、むかしからなんだけど。
「ずっと一緒にいようね」とかが好きじゃなくて。
なんかしっくりこないんだよね。誰であっても。
(言われた〝瞬間〟ちょっと冷めてる自分がいる)
相手の素直な気持ち(心)はもちろんのこと、
自分の素直な気持ち(心)だって、
意思やマインドでコントロールできるものではない。
考えるより先にやってきて、頭を使うのはそのあと。
だからいつ何がどうなるかはわからないし
どんなことが起こるかはわからないけど、
大切なものを大切にしたい。
そして今という時間を、瞬間を、心地を、
味わって過ごせたなら、とても豊かだな、って。
それはさておき。(おくんかい)
結局なにが言いたいかって、
いつだって、今の自分の気持ちを尊重する。
瞬間瞬間も、ほんとうに大切にしたい真心も。
(今だけを見るということではなくね)
自分のなかの男性性と女性性の
信頼関係を深め、絆を結び、育んでゆく。
(もっと言うと男性性と女性性だけではなく自分のなかにあらゆる存在を感じるけれど)
内なる調和を意識することや
そのまんま感じる、ありのままを認める、
ただそうと受け容れる、が、ほんとうに大切ですね。
と、ひしひし想います。
男性性と女性性は絆を結び
内なる子どもは無邪気なままの真の心に還り
この地球を、人生を、自由に遊びまわり、
愛と喜びの道を歩んでいく心豊かな人たちが
ひとりでも多く増えたなら…
ほんとうの意味で、この星(地球)は、
愛と調和の星になるね。
そんな人生を、その道を歩むと決めた人たちの
サポートができたなら。
仲間として共に実践していけたなら。
(たとえ物理的には離れていようとね)
こんなに嬉しいことはありません。
(そして共に謳歌、拡大、繁栄していきたい♡⃛)
時々、〝誰かと〟というより、
自分のなかで誰かと誰かが恋愛をしているような、
自分と恋をしてるような、自分と愛し合ってるような。
(というか愛そのものなんだけど!笑)
で、この〝自分〟という部分に、
宇宙や地球や、存在すべてが含まれているような。
なんだか不思議な、そんな感覚になるときがあります。
こういう心地にいるとき、そこに言葉という言語はなく
〝静寂〟のなかで〝音のない音〟に包まれ包んでいる。
すべてが自分のなかで起こっている。
ほんとうに〝わたし〟のなかに宇宙(世界)がある。
この瞬間〝わたし〟というものもない、ような。
ふーーむ、言葉は難しいね。笑
ここからどうでもいいおまけ。
ある日ふと唐突に
「わたしは火と水の調和をやりにきたんだ」
と思ったことがあるんですが。
わたしのホロスコープのエレメントは
「火1」「土4」「水1」「風4」という配合で
五感で味わうことや、それを育むこと、
インスピレーションやアイデア
コミュニケーションなどは得意でも、
「よっしゃ!火と水!鍛錬するぞ!」という
瞳を輝かせてわくわくする生まれる前の自分を感じて
おまえはなんてかわいいんだ、となりました。
おまえがそう決めてきたんなら、
やってやるよ、ってなりました。
わたしの主は、愛だからね。
