わたしのすっとぼけバナシ。
(びびるくらいむっちゃ長くなった。笑)
年末、ノイズがひどかった。
〝人を傷つけてはならない〟
〝人の人生に介入してはならない〟
(どっかの修行僧かよって感じのノイズだけど笑)
「うるさい!傷つけようなんて思ってない!」
「介入なんてする気ない!!」
「おまえの人生おまえが決めろ!!!」
「全部自分で選んでいくんだ」
「これまでだってそうだった」
「追い詰めるのは正しさだけ」
「わたしに正しさはいらない」
「わたしは主張しない」
「わたしは証明しようとしない」
「愛は傷つけない」
何度も唱えていた。
そのノイズがしてたとき、
身近な人から相談っぽい話しを聞いたときにも
純粋にただ感じたことを言うことにすら
なぜか躊躇してしまっていた。
わたしは、愚痴や文句だけを話す人は
むかしから来ないんだけど
(どストレートに向き合うからかな)
(いつからか来なくなった)
(吐き出して向き合って気づいて笑って帰る人はいる)
(達者でな、さらば友よって感じ)
けど、そのノイズがしてた時期は
やっぱり現象にあらわれてた。
「これって介入になるの?」
「介入って一切関与しないこと?」
「話しを聞いて感じたことをただそのまま言う、ただそれだけだよな」
「むかしは、そんなこと考えなかったな」
とか、なんかごちゃごちゃしてて
いつもみたいにストレートな対話ができなくて
傾聴だけに偏るスタイルになっていた。
ほんとうに大切に思ってることを見つめ直した。
わたしはいつもこういう
哲学めいた(?) 問いが浮かんだとき、
内観したり自己対話して、答えを出して、
自己完結するクセがすごくて。
(クセなんかどうかしらんけども)
けどね、介入がどうとかっていうより
わたしがひっかかっていたのは
やっぱり〝正しさ〟だった。
(介入はシンプルに首突っ込むことだと思う)
(頼まれてもいない、よかれのお節介)
(首突っ込んでどうこうしようてきなこと)
(たしかにそれはわたしもいらない)
信念って「それを正しいと堅く信じる心」
って書いてあったんだけど
わたしはむかしから、ドラえもんの
「戦争なんてどっちも自分が正しいと思ってるよ。そんなもんだよ」
っていうセリフをとても大切にしていて
アシタカの「どちらの肩も持たない姿勢」というか
「どちらにも偏らずに真ん中を押し通る姿勢」
みたいな、そういうものに感銘を受けたり。
〝真ん中をいけ〟
これだけは、強く感じるのです。むかしから。
なんというか、普遍的な愛、というのか
そういう〝あったかいもの〟は
日常にたくさん溢れてるし、忘れそうになっても
そのへんにたくさん転がってるのになあ
なんて感じながらも、それと同時に
この世界にたくさんの疑問を抱きながら
ピラミッド構造というのかな。それをひとり黙々と
「ほ〜ん、なるほどな」と理解していってたときも
人には話さないように、ひとりで向き合っていて。
(シンプルに楽しくないじゃん)
(心の状態で世界の見え方が変わるしさ)
(煽りたいわけじゃなかったし)
(戦いたいわけでもなかったから)
(というかほんとうに大切なことはそこじゃないから)
(だから答えが出なかった。正解がなかった)
(なんでみんなお金を上に置くんだろう)
(という素朴な疑問から始まったの)
(だって楽しく生きるためのひとつのツールでさ)
(稼ぐために生きてるわけではないじゃん)
(大切じゃないって言ってるわけじゃないよ)
(そんなことを考えてた21歳北新地ホステスでした)
でね、思ったんだ。
わたしはどこかで
〝愛というものはこうあるべき〟が
あったんだと思う。
「信念は貫くもの」そう思っていた。
振りかざした瞬間に凶器になるから。
でもそもそも、
〝正しい〟とする心があるから
〝間違い〟とする心が生まれるのだと思った。
わたしは、むかしからずっと
「人生は選択の連続」
「自分で選んで自分で決める」
と、人にも自分にも言ってきたけれど。
(そしてそれが人生を創っている)
でもそれは、信念という
正しさのようなものではなく
単なる事実だ。
その自覚があるにしろないにしろ、
無意識にしろ意識的にしろ。
それは、信念というより、事実。
そのことを認めるか認めないか、
受け入れるか受け入れないかは別として、
ありありとした、ただそう在る、事実。
その人のなかにある〝真実〟は、
なにかはわからないけど。
わたしにとっての真実は、
わたしは宇宙であり、愛であり、
源でもあり、創造主でもあり
人間でもある、ということ。
これは、信念じゃない。
脅かされるものでも、揺らぐものでもない。
「だってもう誰に何を言われてもそうなんだもん」
としか言いようがないほど、真実(笑)
ただ、志してるものなら、ある。
〝愛の在る人に成ろう〟と決めたあの日から、
わたしが志しているものは、調和の世界。
個人的な夢とか望みを持ったことがほとんどなくて。
そんときそんときのやりたいことをするから。
個人的に行きたいとこややりたいことは
いくらでもあるし、行くし、やるんだけど。
それってなんか、夢とか望みとかっていうか
やりたいからやろうと思った、っていうもので。
だから、逆に言えば、そういう
〝なりたい夢〟みたいなものが自分には無いなあ
ということに劣等感を感じた時期もあった。
〝あまり物を持たず、身軽にどこにでも行けて
自由に、どこにいても仕事ができるようになりたい〟
とは、思っていたけど。
(気づいたらあの頃思い描いていたところにいるんだね)
(唯一ちょっと憧れたのは保健室の先生)
(けどそれってなんだかんだ似たようなことだな)
(あとスナフキンと慶次と剣心な)
(死ぬまでに絶対行くと決めてたコムローイも行った)
(なんだかんだ、ほんとうの望みはそうなるんだな)
けど、ほんっとうのほんっとうに
深いところの望みを言うのであれば、
まじで「調和の世界」しか望んでない。笑
(まじでこれはいい子ぶるとかではなく)
(みんな、そっちのほうが楽しいやろ笑)
もうね、「そうなる」としか決めてない。笑
そうなってる地球の未来しかみてない。笑
だからもう、ちょ〜〜ぜつわがままな
超個人的な望みを言うのであれば
「わたしの望みのためにおまえはおまえを生きろ!」
「わたしの望みのために心から笑えるように生きろ!」
(実際ひとにはおまえとか言わないんだけど)
(根底にいる男性性かしら)
(それとも中学時代のわたしかしら)
(まじ何様って感じよな)
(自分のなかから「まじ何様」が出てきたらさ)
(神様です、って答えようと思った)
(途中でふざけるように入ってくるひとりごと)
(やめらんねえな)
に、なっちゃうんだよなあ〜〜〜。
「そうするかどうか」は、
もちろん相手が決めることなんだけど。
だってさ、
「わたしはわたしを生きること」
「あなたはあなたを生きること」
(自我のほうではなく源や本質のほうね)
それが愛の道であって、
そういう人が増えるだけで
心からの笑顔がたくさん増えて
やがて地球は
愛と調和の星になっていくんだよ?
しかも、自然と。
それってめちゃくちゃすごくない??(笑)
こんなにシンプルな世界、ある?(笑)
誰かや何かに対して
〝許せない!!!〟
〝ありえない!!!〟
が働くときっていうのはさ、やっぱり、
自分のなかの「正しさ」が発動してる。
だからそれって、瞬間的に
〝間違ってる!〟というジャッジが
入ってるってことなんだけど。
だから、信念いらないわ。わたし。
そんなとき、無条件の愛、ではない。
愛の眼差しでみてない。
自他共に。
わたしは、たぶんきっとどこかで
スピリチュアルなことや、ヒーラーや、
心や精神、なんでもいいんだけど、そういうの。
ジャンル分けせずに、ひとくくりに
〝目に見えない世界を扱う仕事〟と呼ぶとして
それをするにあたって、どこか無意識で
〝そういう仕事をする人は
そうじゃなきゃいけないんだ〟
みたいな見方になっていたんだと思う。
無意識のうちに自分に課していた。笑
〝そういうものなんだ〟
と、安易に迎合して、採用していた。
それがわたしを徐々に縛っていた。
在り方はたしかに大事なんだけどね、
もっとシンプルに言うと
〝ただそう在る〟のほうが、近い。
在る、を続けながら、
なんかが浮上するたびに向き合って
内観して、自己対話して、とか。
それが在り方になってるというか。
ただ、〝在るがまま〟なんだ。
(まーーーた文字数オーバーしたやでしかし)