人間としての
個人的なわたしが弱気になったとき、
内なる獅子が吠えてくるときがある。
むかしからの、わたしの相棒。
逆に言えば、弱気になっているなら、
内なる獅子にアクセスすればいい。
内なる獅子に深くアクセスすると、
誇りと気高さ、勇敢さを呼び醒ませる。
太陽のような、獅子の誇り高さが、君臨する。
わたしの場合は、この声(音)は、
いつも肚から聴こえる。
肚まわり、腰まわりが、
〝すすめ〟と言ってくる。
だからわたしは、女性というものは、
本当はもっと太陽みたいに
すべてを照らし出すような明るい笑顔で、
皇女のように惑うことなく君臨するような
そんな存在なのだと思う。
なんかわたしは過剰に
命や肉体を守ろうとするのは
なんか違うなあと感じていて
たとえばだけど
〝身体の感覚に従う〟というのも
肉体レベルだけ(のみ)で選択してしまうと
細胞に記録されているパターンや
生存本能というものが働いて反射的に
恐怖や危険に基づいて選択・判断してまうし
脳は脳で安全ルートを検索したり
危険やトラブルを回避しようとするのも
過去の記録からのアラワレだし
身体や感情、脳が「恐怖」や「危険」を察知して
防犯ブザーをブーブー鳴らして
どれだけ〝やめとけ!〟って言ってきても
魂やハートというのはそれにかき消されんと
〝GOGO!!〟って言ってきたりする
(もちろん体力的に無理させたりはしないでね笑)
(身体に鞭打つのとはまた違う)
(心地よさを大切にしてひとつひとつ丁寧に)
内なる獅子とハートは、溢れんばかりのサインで
内なる勇気と胸の高鳴りを知らせてくるんだ
〝飛び込め!!!!!〟
GOGOランプ点滅しまくってるのに
脳と全細胞で拒否りまくったりする
「抵抗感」や「こわさ」だよね。
(違和感は無視しないでね、これまじ)
だけどわたしは、高揚感とも呼べると思う。
ただ、見たこともない新しい世界に
ドキドキしているんだ。
そう、つまり、自我はこわがりで
とてもかわいいのである。
その場数を踏めば踏むほど
己という宇宙への信頼は深まるのだと思う。
波動は身体で受け取るから、
「なんか違うなあ」ってときは
ハートも肌感覚も、やはり
〝なんか違う〟と教えてくれる。
理由なんてものはどうでもよくて
〝なんか違う〟なら、なんか違うの。
他の〝何か〟がある。
それがなんなのか?大切なのはそっちのほう。
逆に〝なんかわかんないけど信頼できる〟
と感じるときも、ハートや肌感覚、
または内側の深いところに響き渡って
〝なんかそれ、知ってるぞ〟
ってなる感覚。頭ではわからなくとも。
だから、べつに
「命を大切にしてない」わけでも
「身体を大切にしてない」わけでも
「進んで傷つきたい」わけでもないけど
〝こいつ〟がそっちだ、って言うなら
そうなんだろうなあって。
少なくともわたしはそう進んできた。
むかしからのわたしの相棒。
命も、肉体も、どれも大切。
これがなければ、
この星を体験できないのだから。
だから、大切にしてないわけではない。
ここまで命を繋ぎ、紡いでくれた
すべての祖先、すべての存在に感謝して
その上でわたしは、主がやりたいこと
主が満足してくれること、
それが一番大切。最優先事項。
〝含みながら超えてゆく〟
自我もエゴも闇も愛に溶かしてひとつへ。
総動員で引き連れて、血肉に変えて、進む。
わたしたちは〝どうせひとつ〟
愛に溶けたらひとつなのだ。
創造主であること、宇宙であることを
思い出しながら創造を続けていくプロセスなのだ。
〝そのために準備してきたんでしょう?〟
地球に生まれるずっとまえから。
無条件の愛。統合。
わたしの〝主〟は、愛だ。
