幼稚園の頃、怪我をした足を見ながら思いました。
「少しずつ治ってる…」
「からだってすごい…!」
じーーーっと見つめていると、
なんだか不思議な気持ちになりました。
私は何も、治そうともしていないのに、
あそんでても、寝てるあいだも、
気にとめてようが、気にとめてなかろうが、
細胞達が働いて、傷を修復してくれている。
それって、めちゃくちゃすごいこと。
幼稚園ながらに感動した。
月日は流れ、
私は熱を出したりしても
すぐに薬は飲まないタイプだった。
なんで薬飲まないの?と聞かれたとき
「自然治癒力信じてるタイプやから」
と答えつつも、心のなかでは
身体の中で何かと戦ってくれている
細胞達をひとり感じては、応援していた。
「すごいなあ」
「ありがとう」
「わたしもがんばる」
(横になってゆっくりすることが頑張ること)
私はインフルにもかかったことがなくて、
高校の頃に豚インフルが流行ったときにも
なんにもしてなかった。
鬼ギャルなのにクソ真面目な医者の娘の友達に
めちゃくちゃ予防注射をすすめられた。笑
(普段スカルプして学校来てるのに体育ある日はオフしてる。うける。)
結局私はかからなかったけど、
その友達は打った型じゃない型に感染してた。笑
めちゃくちゃ爆笑した。笑
いつからだろうな。
この身体を信じてあげられなくなったのは。
やっぱり私は、働きに出てからだと思う。
それも仕事が楽しかったり、
外したくない予定だったりがあると尚更で
「なんでこんなときに」
なんて思うこともあった。
だけど、そんなときだって、いつだって
私を生かそうと、いついかなるときも
活動してくれていたんだなあと思う。
私はそういう自然な働きにこそ、
なんとも言いがたい、深い愛を感じるのだ。
幼い頃のあの時の感動を
いつのまにか忘れていたのだろうな。
目に映る景色。
まだ知らない生き物。
まだ知らない文化。
まだ出会ったことのない人たち。
まだまだ、知らない感動が待っている。
そういえば、小学生の頃、
歴史の授業を受けていたときに
ふと感じたことがある。
淡々と、着々と、出来事を説明する
「◯◯の戦では◯◯万人が死にー」
という先生の声は、私から遠ざかっていき
この人たちも、私たちと同じ人間で、
様々な感情があり、目に映る景色があり、
大切な人たちがいたはずで…
たとえ教科書に名前が載らないような人であっても
その人だけの物語があり、感じたものがある。
何を見て、何を感じ、どんな世界を生きたんだろう
その世界の風は、どんな匂いがしたんだろう
映像が浮かび、まるで映画を見ているかのよう。
そのすべてが、
この大地に染み込んでいるのかも知れない。
"生きている。共に"
いくら細胞や遺伝子やDNAたちが知っていようと
この身体で体験したことのないことは、
私にとってはすべてが未知だ。
見慣れたはずの風景に、
いつのまにか新しくできた喫茶店。
ここにあったはずのものがなくなり、
なかったはずのものがうまれていく。
散歩はいい。
足を感じ、地球を感じ、
ゆったりと景色を眺めながら歩ける。
自転車もすき。
徒歩ほど疲れない、スイスイいける。
なにより風が気持ちいい。
ドライブもすき。
空間のなかに好きな音楽が流れる。
信号待ちで、街行く人を眺めるのがすき。
遠くまで行けるのがいい。
運転側だとむりだけど、助手席なら
ゆっくり景色を眺めていられるのがいい。
揺られているとねむたくなる。
電車もすき。
地下鉄はあまりすきじゃないけど、
窓から景色が見えて、人の少ない平日の昼間。
あの時間帯の電車に揺られるのがすき。
新幹線もいいね。
通るだけの、降りたことのない土地。
見たことのない景色。町並み。風景。暮らし。
通り過ぎゆくものにそれらを感じながら揺られる。
タクシーのおっちゃんとする
他愛のない話しもすき。
おっちゃんはきっと、交流という
触れ合いがすきなのだろうな。
わたしもすき。一度の出会い。
こういうことを思うと、
ひとはただ、存在しているだけで
気持ちいいのだとおもう。
湧き上がってくる感情や、
浄化や昇華を求めて浮上してくる
記憶や記録たちは、抗っても仕方ない。
それらは仕方ないけれど、
心には、あたたかいカケラたちを
もっていたいなと思う。
なんにもなくても、あたたかくなれるから。