2024年3月24日


こんばんは


長野県の高校入試合格発表があった先週

今日は親戚のお子さんの合格祝いを届けてきました

一時はどうなるか?と思って心配していましたが

無事に合格して本当に良かったです


これからの始まる高校生活を

思い切り楽しんでほしいですね!

そして、描く夢に向かって頑張って欲しいです


さて、北陸新幹線の敦賀延伸開業直後に

新幹線「かがやき」に乗って終着駅の敦賀を訪ねた

北陸新幹線延伸記念シリーズから今回は

近現代の敦賀の足跡を訪ねた様子をお送りします


ソースかつ丼の名店、ヨーロッパ軒から

再び海に向かって歩くことしばらく

敦賀湾の海岸線を走る道路に出ると

眼の前には海上保安庁の巡視艇が並んでいて

まるで舞鶴のようでした

(この辺りの雰囲気はすごく舞鶴っぽかったです)


海岸道路をしばらく歩いて

やって来ましたのは敦賀鉄道資料館です

旧敦賀港駅の駅舎が鉄道の博物館となったこの施設
実はここには近代の敦賀がどんな街だったのか
それを知るヒントが並んでいました

直前からものすごいあられが降ってきて
この先の雲行きの怪しさを物語っていますね
中に入るとレトロな雰囲気が全面に感じられて 
日本が急速に近代化した時代の空気を
そのまま感じられそうな佇まいの建物でしたよ

敦賀は実は鉄道の街でもありました
この辺りは急な山に囲まれていて
敦賀駅を通る北陸本線は琵琶湖へ出るにも
福井市の方に向かうにも難所を越えねばならず
その真ん中にある敦賀駅で機関車を手配して
ようやく越えることが出来たほどなんだとか

確かに、敦賀付近を走る北陸道も
グネグネと上下線が分かれて入り乱れていますよね
福井県を二分する木ノ芽峠は特に難所でした
最盛期には国鉄職員が多数配置され
街はかなり賑わったそうです
そして、もう一つ
この旧敦賀港駅は、日本とヨーロッパを結ぶ
重要な拠点とされてきました

飛行機が一般のお客さんを運ぶ前の時代
日本とヨーロッパを結んでいたのは
何と鉄道だったそうです!
今ではとても考えられませんが
当時は東京駅からパリやロンドン、ローマまでを
鉄道が結んでいて、切符も販売されていました

東京を出発した列車は琵琶湖沿岸を通り
この敦賀港駅までやって来ます

敦賀港駅から船に乗って日本海を渡り
ロシアのウラジオストク駅から先は
シベリア鉄道に乗ってモスクワへ
さらにそこからベルリンを経てパリへと繋がります

ヨーロッパへの渡航は、当時の船だと
約3ヶ月ほどかかってしまうほどの長旅でしたが
国際列車を使うと17日で到着できます
にわかには信じられませんが
当時の人たちにとっては高速交通網だったんですね
こちらは当時の時刻表です
東京発ロンドン、ローマ、パリ行と書かれています
大河ドラマ「いだてん」には
この国際列車を使ってヨーロッパに行く様子が
本編に描かれていましたよね

東京からヨーロッパを結ぶ国際列車のルートには
もう一つ下関港から朝鮮半島に渡るルートも
当時は存在していましたが
治安の悪化やシベリア鉄道の延伸などで 
主には敦賀から海を渡るルートが使われたそうです

今では小さな資料館となっている敦賀港駅ですが
かつては今で言う国際空港のような
日本の玄関口だったんですね
その壮大なスケールに感無量でした

国際列車は第二次大戦前まで運行されましたが
開戦とともに運休を余儀なくされ
戦後はウラジオストク閉鎖なとの冷戦の影響と
その後の飛行機の台頭で、
国際列車はついに復活することはありませんでした

かつて大陸と日本を結ぶ重要なターミナルにして
日本の玄関口だった敦賀港駅
古代から近代まで、日本と海外を結んだ
敦賀の歴史が非常に良く分かる建物なのでした
国際列車、その響きに憧れますよね♪

ここまで、敦賀の街歩きをお送りしてきましたが
この敦賀鉄道資料館の扉を開けた瞬間
目に飛び込んで来たのは暴風雨が吹き荒れて
建物が唸りを上げる台風上陸のような風景

実はこの時、敦賀市には暴風警報が出され
台風並みの暴風で交通が麻痺していました
雨もかなり激しくて、
せっかく敦賀港まで来ましたが
もはや歩いて移動することすらできず
残念ながら敦賀の街歩きを
断念せざる負えませんでした

この後も、舞鶴みたいな赤レンガの館や
日本三大松原や織田信長が退却した古戦場など
観てみたい場所はたくさんあったのですが
泣く泣く、敦賀をあとにすることに…

でも、こんな形で旅は終わりません
こんなこともあろうかといくつかのプランを
この日は事前に用意していました
次回はそのプランが発動し
今年の1月以来訪ねてみたかったある街へと
訪ねてみることなった様子をお送りします

では、
今日も最後までお読みいただきまして
ありがとうございましたm(_ _)m