なんやけど、全然違うことしか書けない自分がいる。

 話は突然変わる「存在する」は述語として不適切である。この意見は言語哲学の数少ない(?)貢献かもしれない。これだと、アクィナスの思想はどうなるだろう。つまり神は全能であるからすべての属性を持つ、と彼は言う。これが、以後の全ての理神論の基礎となった考え方だ。しかし述語として不適切であるとは、属性ではないということであろう。つまり「存在する」は性質ではない。とすると、神は存在しないかもしれない。神は完全であるが故に存在という性質も持つ。これは、私には謎の言葉だ。存在しないという性質も、性質には違いないのではないか。あるいは、ポジティブでなければならないというのであれば、無であるという性質と言い換えるべきなのか。もしかしたら、述語として不適切であると言ったラッセルは、あるいは無神論であるべきという気持ちを、無意識裡にそこに込めているのか。つまりあからさまではないが、神を否定したいという気持ちが、純粋理論の装いで裏に隠れているのではないか。いやこれは実は逆で、存在という術語が理論上は不適であるということは、そもそも名指しした時点で(つまり主語としてそこに表現された時点で)存在しているということになってしまわないだろうか。もちろんラッセルはさらに厄介な理屈を展開していて、名詞と一般に考えられている物はいくつかの記述の集合によって代替されるべき存在であると書いている。あ、ここで「存在」と言ってしまったが、もちろん彼自身はもう少し注意深く言うわけだ。わかりにくいかもしれないが、たとえば伊藤博文は固有名詞ではない。明治政府の初代総理であり、かつ間をおいて四期務めあげ、大日本帝国憲法を成立させ、最後はハルピンにおいて銃弾に斃れた、以上のようなさまざまの記述の複合であるということ。本当の固有名詞とは、目の前にあるものを指さして「これ」というときの「これ」であると言っている。何のことやらわからないが、まあ存在証明をする必要のないものということが言いたいのだろう。その場合だと、神はここにいると指差し確認できないものであるから、いるもいないもわからないでよいということになるだろう。

 いや、そもそも違う時代の主張をこうつなげて見せても仕方ないわけだが。私が言いたいことは、ここまで抽象的な言葉を連ねる思考だと、いずれの方向への解釈も可能で、全然明確ではないのではないか、そういうことだ。たとえばウィトゲンシュタインの思想は紛れが多く、それは彼の書き方が尋常ではないからという意見が多いが、そうでもないかもしれない。普通の書き方でも解釈が分かれそうだ。つまりいずれにせよある程度以上の正確さはあり得ないということが文章の宿命ということでよいのではないか。

 神というものを切り離したとして、述語として不適切であるということはつまり、あるものはあるということだ。これはどういえばよいのだろう。感知できるものはある。対象として自分とは別物と言えるならば存在する? というか指示できるならば存在するということであるとでも言うか。文章の中でそれを指摘することは存在を認めることとは別の行為であるという表現なのか。もう一つ考えられるのは、「……が存在する」という言い方はアイデンティティの概念をその上にかぶせることであって、トートロジーに陥る。つまり犬が存在するとは、犬という単語を出した時点でその対象の存在は確認されているので、改めて存在するということは重語である、ということになるか。

 全体的に言えるのは、一応譲歩して、理論は現実に対して完全に同一にはなりえないという読み方も可能だし、理論は現実そのものであるという主張とも取れる。それは全く正反対の思考だ、そんなばかな話があるか、と言いたくなるかもしれないが、そういうもんだと思うんよ。

そうだ、柊姉妹生誕祭は鷲宮神社で開催されたんだけど、さすがに行けなかった。

 介護が始まる直前にこれ買っといて、作れてなかったんで、開封するか……